藤森さんの記念碑的大著に最大限の敬意を

八束はじめ
 丹下健三+藤森照信著『丹下健三----Kenzo Tange』
丹下健三+藤森照信『丹下健三 KENZO TANGE』
新建築社
定価:本体28,500円+税
A3判変型上製函入 518頁

 ほんもののモノグラフ

丹下、藤森の共著という体裁にはなっているが、実質は藤森さんの単独の著作である。丹下健三ご本人へのインタビューのみならず、『新建築』に延々連載された当時の関係者へのインタビュー、更には丹下事務所に残された資料等々を駆使して書かれている。この手の、つまり、1人の書き手が1人の作家についてまとまった本として書いたものをモノグラフというけれども、実は、日本では本格的な建築家のモノグラフは出されたことがない。単発論文や作品集(本書もモノグラフであり、豊富な写真がついているから、その系統ではある)に伴ったもの、あるいは伝記風に書かれたものはあるけれども、きちんとした議論がまとめられたモノグラフはいままでなかった。これは大変なことだ。

実をいえば、アメリカでは、ジョナサン・レイノルズが前川國男のモノグラフを1年ほど前に出している。レイノルズの前川論としては、美術出版社から出た前川さんの作品集の序文もあるけれども、比較的長めであるとはいえ、内容的な充実は遥かに及ばない。モノグラフの方はいい出来である。翻って、日本の前川ファン(?)たちは、マスターの論文集は編んだけれども、自前のモノグラフは出さなかった。私はこれについて、文集の書評で挑発したことがあるけれども、リアクションはなかった。先にレイノルズの本が出てしまうと、頭を垂れるしかない。shame on youというくらいのものだ(でも、せめて翻訳くらいは出してほしい。アメリカの読者の方が前川について色々と知っているとかいうことになったらほんとに恥だ)。これで、丹下論まで向こうにやられてしまっては、恥の二重塗りというところだったが、藤森さんのこの大著は、その意味でも快挙である。さすが、という他ない。

 資料を「発掘」する

といっても、内容が芳しくないのでは意味がないが、さすがに満を持して書かれた(出版者側を含めて)ものだけに充分な手ごたえがある。モノグラフというからには、それまで出ている資料を適当に組み合わせて書いただけでは足らない。新しい資料の発掘なりがほしいところだが、以下述べるように、それは当然果たされている。とりわけ、充実しているのは初期の部分で、未発掘の学生の頃の文章などはとりわけ興味深いし、卒業計画なども大きなカラー図版で掲載されていたり(岩波から出ている藤森さんの旧著『日本の近代建築』にも小さな図版がある)、戦後すぐの様々な展覧会のインスタレーションなども見られて有難い。盛期でなくこの時期の資料発掘及び記述に力が入っており、例えば前記の学生の頃の文章や、よく知られたものではあるが「MICHELANGELO頌」、あるいは実作では岸記念体育館(前川事務所での担当作)などの分析に後年の傑作群の一つひとつより大きな紙面を割いているなど、いささか特殊ととられるかもしれないが、私のようにこの時期にとりわけ関心がある者には、実に興味津々だった(因にレイノルズの前川論も戦前編が比重が大きく、かつ読みごたえがある)。日本では情けないことに、この手の本が入門的な情報を与えるためととられがちだが、これはそういう本ではないのだ。といって、誰かの(?)テクストのように七面倒臭く分かりにくい文章ではないから、その点は安心されたい。

その後の「世界のタンゲ」となってからのものとなると、さすがに知られた作品が殆どだが、事情があって発表されなかった淡路島の戦没学徒記念館(1966)などは殆どの人が初見なのではないか(実は世界文化社刊の限定頒布の作品集に掲載されたことはある)?それ以外にも、例えば旧草月会館の初期案の図面などもあって、当時のデザイン傾向が急速に変っていく様がトレースできる。代々木の体育館の初期案なども実に興味深い。その度毎に挿入される関係者の証言は、藤森さんによるこのトレースに無上の説得力を与えている。伝え聞いた所では、藤森さんご本人はこういうモノグラフはある程度時間をおいてから書かれるべきだというのが持論だそうだが、それを待っていてはこの充実はなかっただろう(持論が破られた事情については小耳に挟んだこともあるが、何分楽屋話なので割愛する)。

もちろん、何でもとっておいたル・コルビュジエなどと違い、丹下事務所(研究室)も昔はさほど資料管理が良くなかったようで(これは藤森さんも書かれている)、戦前の国民住居のコンペ案などは結局見つかっていない。私は必要あって藤森さんにこれがどうなっているのか電話で伺った覚えがあるが、要するに見つからないのだ、という説明を頂き、それは前後の事情(戦後の自邸の原型となったとか)を含めてここに記載されている。となればこれ以上のフォローはあきらめるしかない。要するに、藤森さんが発見していない資料や事実は、今後も容易には見つからないだろうということなのだ。いうなればこの本が臨界を形成したといってもいい。その意味で、これから先の丹下論(私の現在進行形の仕事でもそれは重要な部分となっている)に対して、これは絶対的なリファレンスの対象をなすに違いない。その点我々は藤森さんに深く感謝すべきだ。

 藤森的論考への信頼感

ところで、資料や情報だけでなく、モノグラフの核心はもちろん筆者の議論である。藤森さんの議論の仕方に言及しないでは、書評にはならない。自分の作業との関連もあって(主題は違うが時期が重なっている)、『日本の近代建築』を再読、部分的には更に何度か読み返したのだが、新書だからといって、そして概説書だからといって、あれはなかなかに端倪すべからざるところのある本である。何より様式建築(装飾的なものというよりも。アメリカン・ボザールなどの古典主義系の)の、観念的ではなく地に足がついた把握は私などの遠く及ぶところではない。印象論などの域を超えて、その本質をわしづかみにしている人でないとああいう文章は書けない。実作などに見る藤森さんの建築へのアプローチは我々などとは随分違うが、ものの押え方には確信的なものがある。それは後続のこの丹下論の至る所でも発揮されていて、各々の問題点を----構造と意匠の軋轢や現場制作上のそれまで含めて----実に的確に判断が下され、かつ明解に表明されている。体質的にはむしろモダニストからは遠い藤森さんは、丹下作品との親近性は必ずしも多くないだろうが、評価は一本筋が通っている。仮に個々の判断に同意し難いものがあるとしても(つまり、私にはそれがあるということだが)、全体的にその判断の基準は信頼すべきものだ。この点は、とりわけ若い人々には注意して読んでほしい。きっと勉強になるはずだ。それを自分の意見にするためにではなく、あなた自身の判断基準をつかむためにも対峙してほしい。書き手も、もちろん作品も、取り組むに足りる相手だ。とりわけ、最高傑作である代々木の体育館の分析はそれだけ一章を割き、藤森さんの筆も力が入っている。失礼ながら歴史家としては例外的なくらい構造に強い(らしい)藤森さんの特質もこの分析には大きく貢献している。文章を追っていくだけであの世紀の作品の立ち上がっていく興奮をある程度追体験させる筆力は、大したものだ。

もうひとつ、充実しているのは「東京計画1960」に関する章で、『明治の東京計画』の著者にはうってつけの題材である(ただ、それを含めて従来の東京都の計画との関係には言及されていないのはいささか残念)。この計画が当時千葉県知事であった加納久朗の発言に端を発していたことは知られているが、ここで述べられているその後の経緯には私も知らないことが多く、とくに岡本太郎のアイデア(夢の島を動物園中心のレクリエーション・ゾーンにするという構想/これは後にも似たようなアイデアがある。ここの先の埋め立て地をオリンピック招致のスペースにするという東京都発注のプロジェクトは私が磯崎アトリエで最後にやった仕事だった----磯崎さんは自分も関わったこの先例について何もいってなかったけれども----とか、荒川修作のアイデアとか、果ては現知事のギャンブル都市のアイデアまで)がもとになって『総合』57年6月号に掲載されたスケッチや、60年10月の『週刊朝日』に発表された案とかは、はじめて見るもので、大変興味深い。「へえぇ〜」とかうなってしまった。最後に展開されている戦前の大東亜共栄圏のコンペ案との類似性の指摘は、私も既にしているところで、同感である(海上は日本にとって最後に残された「殖民」のための空間だったのだ)。

 「空間」の変異

その他の個々の議論に細かくコメントすることはここでは出来ないし、幸いなことにこの「偉業」の後にも書くことは残されているから、それはまたその機会にということにはしたい。ただ、賞讃だけしていても書評としては希薄の誹りを招かざるを得ないので、幾分相対化するためにも、まだ展開の余地があると思う、あるいは自分が面白いと思った点を具体的にひとつだけ取り上げてみよう。それは「空間」の問題である。

藤森さんはとりわけ1960-62年頃の丹下作品に関して「内部空間の不在」を語る。このことに関するインタビューでの磯崎新の、内と外とを違う発想で扱うなんていうことを当時考えたこともなかった、という発言は面白いが、丹下作品での内部空間ないしインテリアの不在は当時の建築界のいわば定評でもあったようで、私も聞いたことがある。その感想の当否(あたってはいるだろう)とは別にもうひとつ面白いことには、「空間」という建築畑では自明の概念は実は戦前には殆ど使われていなかったのである。もちろん認識論的な空間というカテゴリーは存在したが、それだと「空間の不在」などという表現はあり得ない。ピラミッドのようなソリッドでない限り、「内部空間」は必ず存在する。今でも畑違いの人にはこのことの説明はなかなか容易でない。しかし、このニュアンスはさておいて、藤岡洋保氏によると、「空間」という概念を積極的に使い、流布させたのは、戦中における浜口隆一であり、戦後における他ならぬ丹下研究室なのだ。浜口と丹下は同級生であり、この議論は東大の岸田研究室周辺で展開されたものに違いない(一級上の立原道造のテクストにも使われている)。浜口の論旨はともかく、丹下研究室の用法は、無限定空間、つまりシステム的なカテゴリーとしてである。磯崎のいう、内と外とを違う発想で扱うなんていうことは考えられないというのは、この概念のうちにおいてである。それは「空間の不在」というような意味付けとは別のものだったわけだ。そうした意味付けが出てきて、当たり前の顔をして定着した----しかも古今の建築にその尺度があてはめられて誰も疑うところがなくなる----のは、何時頃のことなのか?これは今のところ私自身にも分からない。しかし戦後建築を追うには重要なテーマだ。誰か手をつけないものか(私自身はいまの所戦前までで手一杯なので)。

 丹下健三と近代建築

ところで、この力作を前にして思う極く素朴な疑問。私なんかは代々木は20世紀後半の最大の傑作であり、シドニーのオペラハウスなどは到底及ばないと思っているし、前を通りかかる度に(それ以上に中に入ると)嘆息を押さえられないのだけれど、この成果を若い人々はどう見るのだろうかということ。そういえば、前に黒川紀章さんから伺った話。黒川さんが某所で丹下さんについての講演を行ったところ、終了後に聴衆の一人が(若い女性だったらしい)来て、丹下さんというのは一体何時頃の人だったのでしょう、と聞いたとか。黒川さんは絶句されたらしいが、まあ、それはさておき、これらの写真やそれに相応しい力の入った藤森さんのテクストを彼らがどう受け止めるのか、ただの昔の建物としか受け止められなかったら、実に淋しい。近代建築が歴史となり得ないことの証なのだから。それはどうなんでしょう、藤森さん?それとも聞いてはいけない問だったのかしら?

[やつか はじめ・建築家]


200302

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

「空間」論への助走としての「時間」論「空間」を(とりわけ社会の中で)考えようとする者たちへグローバリズム論の最も広い地平を柄谷行人「一般経済学批判」──もしくは「神は細部に宿る」として見るべきか?住宅論の風景家族論──それは住宅という建築の形式か内容か?建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽「芥川賞」の受賞作を論じてその現代的意味を吟味し、我が造家界の行く末を繰り言風に臨む「ショッピング・ガイド」へのガイド「メタジオグラフィ」、あるいは「超空間誌」のほうへ「〈ポスト〉マン」は何度ベルを鳴らすのか?──歴史と批評の間に広がる「スーパーフラット」な断層についてシュマルゾーと立原道造──現象学的空間論の系譜に遅ればせながら「21世紀の『共産党宣言』」を論ずる書評最もル・コルビュジエを愛した建築家による美しいエッセイあまりにポストモダンな?日本建築の現場への文化人類学的アプローチ歴史の迷路・迷路の歴史個々の木は良く見えるが、1930年代という森が見えない!内田隆三さんの大著に関して思ういくつかのことども藤森さんの記念碑的大著に最大限の敬意を
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