「ショッピング・ガイド」へのガイド

八束はじめ
Rem Koolhaas, Judy Chung Chuihua, Jeffrey Inaba, Sze Tsung Leong『The Harvard Design School Guide to Shopping: Harvard Design School Project on the City』
Rem Koolhaas, Judy Chung Chuihua, Jeffrey Inaba, Sze Tsung Leong
『The Harvard Design School Guide to Shopping: Harvard Design School Project on the City』
2002年4月発行
Taschen
定価:$50.00
ISBN:3822860476
800頁

レム・コールハースの指導するハーヴァードの大学院の都市研究シリーズ「PROJECT ON THE CITY」の第2巻である。第1巻の『Great Leap Forward』と題する中国ものは『10+1』本誌の連載の次回でとりあげることにしたのでさほど間がなく出るから、それと併わせて読んでいただけると著者たちの文脈が了解しやすいかもしれない。

この「ショッピング・ガイド」は「公共的活動の最後の残された形態ともいいうるもの」、つまり「商業活動」が都市形成(あるいはまちづくり)に如何に関与してきたかをさまざまな角度から検討している。第一巻ともども『S,M,L,XL』と同じようなカタログ合本のような分厚い装丁で持ち運ぶにも肩が凝る。前にもこの欄で建築の士農工商のようなことを書いたが、アーバニズムに商業活動が与えた大きな影響をとりあげた本にはロバート・ヴェンチューリの『ラスヴェガス』がある。そのヴェンチューリ夫妻のインタヴューも本書には併載されている(ただしその出版当時1972年と現在のラスヴェガスの比較が行なわれているが、ストリップの光景がまるで違う──ヴェンチューリのころは砂漠の中のロードサイドだが、いまや大都市の目ぬき通り──し、客や売り上げの統計も5-10倍に及んでいる)が、それのみならず、とにかく場所もアメリカやヨーロッパのみならず日本、シンガポール、インドネシアなど世界中の場所が登場し(著者たちもまた然り)、テーマも技術(空調、輸送)、計画、都市、戦略、作家論、歴史そのほかいろいろてんこ盛りである。実際、歴史的概観、統計、そして最近のトピック(経済危機[この議論はあとでも繰り返されている])がひとつながりでとりあげられる(言い換えれば、過去、近過去を含む現在、そして進行形ないし近未来というわけだが)序につづく大部分は、テーマがアルファベット順に並べられてレヴューされている。ポストモダンに関する議論がいろいろと行なわれていた時期にフレドリック・ジェイムソンからデヴィッド・ハーヴェイに至る論者は、その重層的な特質を議論しながらも、少なくともそれが市場経済にリンクしている部分に関しては同情的ではなかった。ここではその垣根も奇麗に取り除かれている。「ショッピング・ガイド」というタイトルそのままで、建築のではなく商業関係の書棚においておいたほうが確実にその専門家のセールスが上がるであろう百科事典である。彼らが建築やコールハースという名前を知らなくとも、多小は変な所はあるがなかなか重宝な本だ、カラフルなヴィジュアルだしということで満足するだろう。何しろ「はじめにショッピングありき」、つまり公共生活の最後の砦がショッピングだというわけだから(「はじめに」じゃなかったのか? それとも「はじめ」にして「おわり」なのか?)。ちなみにこのタイトルはもちろん聖書の「はじめにことばありき」のもじりで、その手には「汝、姦淫するなかれ」のもじり、「汝、買い物するなかれ」という項目もある(ヨーロッパで日曜日にショッピングができないということが中心。アメリカのほうが教会に行く率はずっと高いのにとかいう分析がついている)。

百科事典ということはすべてが等価(「スーパーフラット」?)に並べられているということだが、この本では均質というのではなく十分過ぎるほど恣意的な項目の拾いがされていて、これがむしろ本書の売りである。つまり読んで面白い百科事典(そうは例があるまい)。序列もつながりもあまりない(リゾーム風のそれは多小はある──矢印で関連項目の指定がある──としても)から、全部を紹介しない限り紹介にはならない、一方全体的な批評はしようがない(そもそも百科事典の書評なんてあるのか?)。といってどれかを省いても致命的だということはない。読むほうも含めてつまみ喰いでも別に構わないのだが、かといって量の堆積がこの事実としてのアーバニズムの一形態に意味を与えているわけだから、所詮は「ショッピング・ガイド」へのガイドたらざるをえないこの書評は書評として、労を厭わず現物にあたっていただかなければならない。でもつまみ喰いでもそれなりの効用はあるということではじめることにしよう。

この量としての意味については、冒頭の「統計」のところが面白いのでちょっと細かく触れてみる。まず人口ひとり当たりの商業(retail)床(以下、単位はすべて平方メートル)。アメリカは2.96、これが断然大きく、日本は0.8、中国0.05、韓国0.4、イギリス0.9、フランス0.8、ドイツ0.2というわけだが、アジアだけは何故か都市のデータまでのっており、東京0.3、上海0.2、ソウル0.1で、後背地と大都市との落差があまりに特殊すぎる中国(これはまた本誌連載で触れよう)を除けば、各々の全国平均よりはかなり小さい。つまり数字の大きさは商業の繁栄の指標というだけではなく、土地の広さ(価格)とも関連する。アメリカの数字が桁外れに大きいのは地方都市郊外のショッピングモールのおかげである。とりあえず、ただっぴろいモールを闊歩するアメリカの田舎消費者の姿が浮かぶが、ちゃんとそのイメージ写真(ばらばらの髪で、両手と小脇に買い物バッグを一杯抱え込み、ボタンをひとつだけかけたセーター姿の小太りの女性)が掲載されている。と思いきや、これは彩色されたリアルな原寸の人間の像をつくるので有名だった彫刻家ドゥエイン・ハンソンの作品(《若いショッパー》というタイトル)という仕掛けだ。なかなか敵もさる者、うっかり見ると仕掛けを見落とす(見落としてもどうということはないが)。

これがトータルの商業床となると、面白いのは各国のそれが世界トータルの床に占める割合で、アメリカは何と39%で、アジア総量の37%(うち日本は14%、中国7.2%、韓国2.4%[ただしいずれもアジア総量比。つまり世界総量とでは日本は5.2%程度])、ヨーロッパの10%(うちイギリス31%、フランス26%、ドイツ9%[同前])、中南米の7%、ロシア1%。アフリカ0.3%を圧している。で、この全世界の商業床の総量がどのくらいかというと、マンハッタンの面積の33倍(アメリカだけなら12.7倍)だそうな。また最大のモールチェーンであるウォールマートのセールスは、国内GDPでいうと世界の国の3/4より上回り、23位のデンマークと25位の香港の間なのだそうだ(ちなみに日本のトップのダイエーは71位、ジャスコが75位でクロアチアとかウルグァイよりは上)。建築家や都市計画家じゃなくとも(あるいはないほうが)面白そうな本でしょ?

さて、その建築家にとっての関心だが、建築家、とくに大学にいる建築家は商業建築を嫌う、何故か、形態も構成もないからだ、とかいう文章があるし、ハイ・アーキテクチャー(建築のエリート)が商業への関与を拒否したがために彼らは20世紀のアーバニズムへの最大の貢献に参加する資格を失ったなどという指摘もある。その後にハイ・アーキテクチャーの巨匠たちの手掛けた数少ない商業建築の例のレビューとかがあり(丹下健三の「東京計画1960」とかアーキグラムの「ウォーキング・シティ」やらセドリック・プライスの「ファンパレス」まで入っているが)、とくにプリッツカー賞の歴代の受賞者ときたら、みたいな件りがあるが、このサーヴェイは、1999年までで、その年はコールハース当人が受賞したのはまた偶然とはいえよくできた話だ(しかもプラダの仕事をはじめて間もない時期でエクスキューズもできたわけだし)。アメリカの大デパートであるニーマン・マーカスが何人もの「ハイ・アーキテクト」を使った挙げ句、連中はちっともわかっていないし、わかろうともしないと社長がいったとかいう件りもある。私も大学に籍を置くようになったばかりに、純朴な(?)女子学生から先生の研究室に入ると商業インテリアとかできるようになりますかとか聞かれて苦吟してしまうことがあるのだが、これだと、まぁこういうわけ(形態も構成もないから)だ、とか答えたら、(エリートかどうかはともかく)馬鹿だと自白しているようなことになる。やれやれ。

とはいえ、とはいえ(言い訳はしとかなくちゃ)、自分でも商業建築は結構やっているし(でもクライアントともめて「ちっともわかっていない」といわしめたであろうこともある──例外であり、いつもそうなわけではないが)、学生時代のアルバイトで最初に活字になった本はヴィクター・グルーエンのショッピング・センターに関する本だった。もちろん共訳でお手伝い程度だが。いまの学生たちはグルーエンなんて知らないだろうが、ショッピング・モール(日本ではショッピング・センターというほうが普通だが、基本的に郊外型の大駐車場がついた施設)の最初の基本形をつくったのがグルーエンだ(シーザー・ペリがそこのデザイナーだった。日本のアメリカ大使館はグルーエン事務所でペリが担当したデザインである)。つまり、この分野での最初のパイオニアである。それとは別にちょっと外れた分野ではウォルト・ディズニーという大物がいて彼もまた本書で取り上げられているが、そのディズニーもグルーエンの本をもっていたと記されている、へぇ成る程。で、このグルーエンは両端に重量級のデパートを置いて、間に小さな店舗のモールを展開するいわゆるダンベル型(船橋のショッピングセンター「ららぽーと」がそのタイプだ)を発明した。アメリカのアーバニズムの最大の発明かもしれない(だけれども、ヴェンチューリの後ろ楯だったヴィンセント・スカリーの『アメリカの建築とアーバニズム』では、グルーエンはルイス・カーンのフィラデルフィアの計画の補足説明みたいなかたちでちょっと登場するにすぎない)。

そのスキームを革命したのがジョン・ジャーディである。ジャーディはサンディエゴの旧都心部のジェントリフィケーション(つまり都心回帰)を《ホートン・プラザ》でやってのけたことで大成功を収めたわけだが、私はだいぶ昔(バブルの頃)東京の某私鉄ターミナルの駅ビルのリノベーションに声がかかり(すぐにぽしゃった)、そのプロデューサーに八束さんには日本のジョン・ジャーディになってほしいとかいわれて目を白黒させたことがある。内容以前にジャーディって誰、ってわけだ(つい先日このエピソードをアメリカ人の友人に話して爆笑された)。いまでは《キャナル・シティ》の成功でジャーディくらいは誰でも知っているが、当時のハイ・アーキテクチャー界では知る人は少なかったはずだ(すでにこの業界の人には「神」だったわけだが)。

ジャーディはこの本の最高のスターでいくつもの項目に登場する。建築ジャーナリスティックに面白いのは、〈Separated at Birth〉という項目でのフランク・ゲーリーとの比較論。タイトルは生まれてすぐに分けられた双子というような意味みたい。とにかくほぼ同時期に成功作(《ホートン・プラザ》と《自邸》)をデザインし、ともにL.A.に事務所を構えたこの二人は、各々商業建築とミュージアム建築をテリトリーとしながらローとハイの代表選手みたいだけれども、じつはいろいろと似ていて、成功の前のゲーリーは(じつはグルーエンの事務所にもいたのだとか)結構モールのデザインを手掛けているし、そのあとにも使っている手法は、イヴェント・ステージ的な空間や中庭や剥き出しフレームの多用とか、曲線的なバロッキズムとか、結構ジャーディと似ている、うんぬん。でもこうした比較は所詮建築家だけに関心あるお遊びでしかなく、「商空間」的及び「都市空間」的に「真面目に」重要なのは、ジャーディがいかにモールを革命したか、新しい都市タイプの空間を発明したかである、もちろん。

ジャーディはモールをもっとハイブリッドなクラスターのタイプに変えた。グルーエンのプランが商業化されたミースであるのに対して、ジャーディのショッピング/エンタテインメントのハイブリッドは──ゲーリー同様──都市のカオスをセレブレートするというわけだ。ベンヤミンは建築がある時期から人の注視から抜け落ちる要素となったといったが(この有名な一節は私の言及でなく、本書にある)、ジャーディのモールはそれをスペクタクルに変える。素晴らしい! スペクタクルなカオス! ただし、グルーエンもジャーディもショッピングそれ自体には興味がないといっているのは面白い。ちなみにコールハース自身はここでは前記ヴェンチューリ夫妻のインタヴュー以外には「ジャンクスペース」という一文を書いている。インタヴューともども『建築文化』(2003年4月号)に翻訳が載っているから触れないが、本書ではこの〈JUNKSPACE〉は、単なるアルファベット順による偶然とはいえ、〈JERDE TRANSFER〉のあとに出ていて、続けて見るとなかなか面白い。ジャーディの事務所を詣でる日本人クライアントたち(フレンダリー[ニタニタばかりしているということ]だが、つねに徒党を組んでやって来る連中)の描写もある。

しかし、都市や商環境をつくりあげた(可能にした)因を(スター)建築家の発想に求めるのはいかにもナンセンスである。それはもっと唯物的に記述される必要がある。『錯乱のニューヨーク』には、確かオーチス(エレベータ)が都心部の高層化を、ジーメンス(電車)が郊外への拡散を可能にしたというような一節があった(ような記憶がある)が、ここでは商環境を可能にしたものとして、空調(全館空調のシステム)やエスカレータ、動く歩道などの技術的な発明と発展についての記述がある。なかなか渋いし、中国篇の編集にも携わっている(経歴を見るとスミッソン夫妻の作品集なんてのも手掛けていて、ますます渋い)Sze Tsung Leongによるテクストもいい。しかし、これは要約のしようがないので見ていただきたい(技術的なセクションだとして飛ばさないこと)、それなりに面白いから。「ドミノ・フレーム」+エスカレータが「理想の商業構造物」だなんていう足し算は明確そのもの。床と人間(顧客)とエスカレータ、そして床から引き出し線で表示される「$」のサインだけをOMA風のヘタウマ・スケッチであしらったオーチスのカタログのイラストなんていうのもいけている。

アジアに関しての記述も触れておかなければいけない。まず日本だが、〈Depato〉という項目があって、これは巻末の著者紹介だと現槇事務所勤務とある松下希和さんの担当で、日本の「デパート」の沿革が紹介されている。要点は電鉄会社との「ケイレツ」──いまでは英語で通用する──で開発が進められていることが多いというところで、阪急の小林一三に関して宝塚歌劇団なども抜かりなく取り上げられている。残念ながらヴィジュアルはなしだが、その代わり、三越のデパート男声合唱団や宝塚の前身といってもよい白木屋のデパート女性合唱団の写真が載っているからよしとせざるをえない。あとは東急と西武による渋谷の競争による開発のエピソードがその商戦略の変貌も含めてかなり詳細に紹介されている。西武が地区開発を試みた公園通りとか、ある時期最もソフィストケートされた都市戦略誌であったマーケティング雑誌『アクロス』の存在とか、新宿と渋谷のデパートを含んだ駅ビルのデザイン(坂倉準三による──一部は大変コルビュジエ風)とかが抜けているのは残念だが(ただし渋谷東急は断面図による店舗の売り場案内が載っている)、それはないものねだりというものだろう。西武美術館の顛末(デパート付属の美術館というのは向こうのアーティストは驚くらしい)とか文化村まで含まれていて、ワールドワイドな百科事典の一項目としては行き届いた立派な記述である。もうひとつ〈Tokyo Metabolism〉という項目は元伊東事務所の細谷浩美さんとの共著。前半は〈Depato〉とかなり重複する(がテクストは才気がある)が、後半は元伊東事務所らしくコンビニ論。「セブン・イレブン・ジャパン」の商品、顧客管理システムが記述の中心(同社はいまやアメリカの「セブン・イレブン」をノウハウ的にも喰う勢いとか)。要は徹底した管理=在庫を作らない新陳代謝というわけだが、本家メタボリスト・グループは最後の最後に出てきて、「彼らの問題は建築家であったということだ」と。Poor Architects! ──ちなみに、せっかく新宿駅周辺の図を使い、槇さんの「グループ・フォーム」に言及するなら、60年のメタボリ発足時の新宿の「グループ・フォーム」計画を載せたら良かったのに、まぁ、「建築」でしかないけど。

シンガポール(〈Coopetition〉──「Competition」と「Cooporation」の合体語──の項)とインドネシア(〈Lippo Way〉の項)はともに「ケイレツ」の極端に発達した形態を中心に記述されている。Lippo というのはインドネシアの華僑資本のコングロマリットで、世界的に「ケイレツ」の根をはり巡らした企業である。Lippoグループは都市開発には経験がなかったために、いろんな手を使ったわけだが、それをここでは「専門家を使って都市を作る法」みたいなマニュアル(?)にまとめてある。なかなか傑作なので紹介しておこう。まず「フットボール場何個か分にあたる大きさの〈レクリエーション-ショッピング〉複合体をつくる(引用者注:この複合体は前記グルーエンの手法)。ローラーコースターとアミューズメントパーク、それにアメリカのショップをいくつか入れること」。次に「ジョン・ジャーディに設計を頼むこと」、「まわりのごみ(ローコスト・ハウジングみたいな)が目に入らないように外構を工夫すること」、「現地のガードの軍隊を雇ってここをパトロールさせること」、「政府の役人を買収して建設許可をえること」、「ストラータをものにして、クライアントと投資家に彼らの理想とする夢の店舗のカラーレンダリングを見せ、建てる前に店舗スペースとコンドミニウムを売ってしまうこと」、「引退した日本の市長を雇い、まちの経営と計画に助言させること」(引用者注:Lippoは実際に何人か呼んだらしい。役に立ったのかね、ほんとに?)、「経験を積んだら次の奴に取りかかるべきだ。今度は」「ノスタルジーでいけ」、「教会は取り壊し、ショッピングセンターをが〜〜んと建てるべし」、じゃなければ「教会はそのままにして(ただ移転させるとか)、学校をつくる」「病院もだ」、「観衆が増え過ぎること、住民が少なすぎることはまずい」、で最後に「爆弾と暴動には気をつけること」というわけだ(これは後述の問題への伏線)。

一般論に戻って、戦略は(当然ながら)ほかにもいろいろある。例えば〈Ecological correct〉(もちろん、「Political correct」のもじり)。つまりエコロジーを商戦略とすること。環境主義と商業主義の融和。それは「サステナビリティとブランドの存続、そしてguilt-freeつまり罪の意識から免れたショッピングを鼓舞する」。それがブッシュとサダムの融和とどっちが可能性があるのかとかいう類の不粋な問いはこの著者たちはしない──丸ごと信じているわけもないだろうが。この本は──あるいはコールハース・パラダイム自体が──「批評的」ではないのがモットーである。で、「エコ・アクティヴィズム」「エコ・アンチマーケティング」、例えば「BUY NOTHING DAY」(アーティスト、フィオナ・ジャックのキャンペーン)をつくるとかいう具合になる。「アクティヴィズム」は「緑の党」に代表されるように一般的には商業主義の不倶戴天の敵のはずである。しかしショッピングという悪魔はこの敵まで簡単に取り込む。旺盛な胃液で何でも溶かし込んでしまう。「ショッピングがすべてに溶け込むのではない、すべてがショッピングに溶け込むのだ」。

それはビルディング・タイプの間の差異など容易に無化する。〈Devine Economy(これは[神曲=ディヴァイン・コメディ]のもじり)〉つまり教会をビジネス化すること、あるいはミュージアムもビジネス化すること。アメリカのモールの平均的売り上げは250ドル/平方フィート、それに対してMoMAのストアは1,750ドル/平方フィートだ。もちろん集約した小さなスペースで、それ以外に膨大な非ショップ・エリアがついていればこそだが、92年以来アメリカのミュージアムでは、ギャラリー・スペースはわずか3%しか増えていないのに、ショップ・スペースだけは29%増なんだそうだ。L.A.にあるアールデコのファサードで有名なデパート「メイカンパニー」がいまやカウンティ・ミュージアムのニュー・ウィングになっている、とか......いやはやセゾンはどこを間違えたんだ?

エコロジーの正反対の戦略もある。それは「Replica」と「Landscape」を足した〈Replascape™〉、つまり偽の自然である。人口芝や人口蔦の類で、ここで主にとりあげられているのは人工の椰子。中にダクトを埋め込んだ奴まであるが(コールハースのロッテルダムの《クンストハル》で柱に生木の皮を剥いで巻き付けていたのを連想させる)、主として修景用である。付図には「ヴィクター・グルーエンも賛同したでしょう!」という見出し付きのカタログ(グルーエンはモールに自然環境を持ち込むことを主張した)とか、ペンギンの背景にこの偽椰子が立っている広告とかがあり、その手の業者のリストもあるが、傑作なのはAvant Garden社! 何でもありだ。オーディオロックと称して中にスピーカを埋め込んだ人工岩のカタログもあるが、確かアーキグラムのプロジェクトに木の切れ端に電子端末を仕込むというのがあった。彼らに先見の明があったというべきか、商業主義の旺盛な開発欲(力?)恐るべしというべきか。夢は現実化している。ちなみに、えぐいところばかり論じられているわけではない。西欧の庭園芸術(見える所での人工性を強調したフランス式から見えないところでそれをやったイギリス式まで)の概観も抜かりなく行なわれている。

戦略の最大のターゲット、それはもちろんショッピングの中核を占める女性たち〈M's Consumer〉である。イギリスでは80%、アメリカでも75%の購買力は女性に握られている。顧客として以外に売り場でも女性の割合は増加の一途だ。だから、彼女たちの動向は商空間、つまり都市空間を決定的に変貌させる。それは普通選挙権の獲得のような公共領域への進出より遥かに先立って行なわれた。しかし、それは相対的である。何故なら彼女たちの社会進出はショッピング以外の活動の範囲と時間を拡げ、結果としてショッピングに振りむけられるエネルギーと時間を奪った。通信販売やコンビニでの買い物はかつて顧客としての王様の時間を過ごした女性たちをターゲットにしていた時代と商環境のあり方を変える。ショップばかりではない。広告も婦人雑誌のようなものから、もっと外に、つまり都市空間に進出する。買うばかりでなく、見る、食べる、遊ぶといったトータルな体験が要求される。それに追随できない商業施設は脱落する(《ヴィーナス・フォート》から《六本木ヒルズ》までの森ビルの戦略が取り上げられていないのは残念だ)。アメリカでは酒や煙草の広告が激減したのに反比例して、女性向きの広告(車のような男性中心のグッズでさえ彼女たちの発言力が大きいという理由で)が氾濫する。

こうしてみると、当然とはいえ、商業活動は現在のグローバリズム下の(ネグリ/ハートの)「〈帝国〉」そのものだという気もしてくるわけだが、となれば、そこに〈Resistance〉が発生してくるのも無理からぬことだ。この項は一見対独レジスタンス下のもののような漫画(フランス語からの訳だそうだ、偽かもしれない)から始まる。「文化占領軍」に対してレジスタンスをしていて、「ケンタッキー・フライドチキン」を偵察してきた男が「酷い、ほんとに酷い代物だ。多くの市民たちがとち狂ってあんなランチを喰わされている」とかぼやいているところに内通者がいて官憲に踏みこまれ、逮捕される。「質問に答えてもらおうか」「誰が!」「いや君はきっと吐くさ。話させ方を知っているんだから」といって尋問者が取り出すのはマクドナルドとコカ・コーラである(次号「ユーロディズニーでの尋問」なんて予告もある)。内容的には圧倒的なアメリカ型ショッピング・マートの出店ラッシュに対して当初は地元経済への刺激として歓迎していた地元(政府なり自治体なり)によるはじめての規制の記述で、ここは極くまともなレポ。

最後の項目〈Ulterior Spaces〉。「Ulterior」はインテリア/エクステリアのどれでもなく、という意味と「Ultimate」を合成したのだろうが、前にも言及したSze Tsung Leongのテクスト。実際の空間はいまや意味がなくなりつつあり、企業からすればシステム、消費者からすればプリペイド・カードなどを通じてコントロールされる「空間」こそが都市のインフラになりつつある、という主旨。要するにこれは磯崎新の「見えない都市」の再論である。ご存じない向きには並べて読んだら絶対面白い。Szeの文章はここでも極めて洗練されている。この著者は注目に値する。

しかし、この「〈帝国〉」は危機に見舞われている。資本主義が本質的に慢性的な危機に付きまとわれるというのはマルクスの分析だが、本書でも最初のところにすでに最近のトピックとして「1980年から90年までモールで費やされる時間は半減した」とか「1995年のシカゴの空のボックス・スペースは120万平方メートルに及ぶ」とか「小売業で生き残れるのは極めて少数──分野によってはひとつかふたつだろう」とか「あまりに多くのゴミが」とかいう引用文がクロノロジカルにコピーされている。これはアメリカ経済のドン底の頃の話でいまでは多少状況が違っているかもしれないが、日本の「デパート」でも〈Depato Crisis〉の項がありセゾンや阪急の美術館の閉鎖が記されている(そごうの破産が載っていないのは時期的なものだろう)。インドネシアではLippoグループの「ケイレツ」はクリントンとの癒着(アーカンサス州知事時代からのものらしい)スキャンダルにまで拡大されたが、スハルト大統領の退陣にまで発展した1997年の暴動の時にグループはターゲットとなって焼討ちを喰らった、うんぬん。

中国篇もそうなのだが、本書もサーヴェイであって批判ではない。つまりトータルでこの現象がどうなんだという視点で書かれているわけではない。だから、この「危機」が言及されているだけでも評価されるべきなのだが、読者としては、この面白い(それは疑いない)本を読んでただ面白がるだけではなるまい。夢々「商業建築万歳」なんてすぐにいわないように(駄目だといっているのではない)。それは単なるおっちょこちょいでしかない。百科事典でも取り上げられていない項目はいくらでもある。本書を批判するとしたら、拾われた項目に即してよりも、拾われなかった項目に即してのほうがたぶん適切である。例えば、インドはパソコン文化が非常に発達した国だが(シリコンバレーの技術者も彼ら抜きには成立し難い)、機器のセールスはフォーマルなショップなどでよりもインフォーマル(非合法)な市場(ほんとに屋外のバザーに並べていたりする)で行なわれるほうが何層倍も大きい(これは、本誌の連載の次号で紹介するワイマールの「グローバリズム」シンポジウムでのインドのパネラーの発表の骨子である)。それは「〈帝国〉」に抵抗するような類の商空間の一部である。サバルタン・アーバニズムとでも呼ぼうか? 抵抗はいずこにもある。しかし、そうした部分は本書のターゲットではない。ジャワ生まれのコールハースは本質的に「〈帝国〉」主義者であり植民地主義者である。そうした理由で本書を批判しようとは思わないが、それを忘却すべきだとも思わない。いずれにせよ、トータルな評価は簡単にはできない。頭と本は使いよう、なのだ。

[やつか はじめ・建築家]


200402

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

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