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47 パリ、近代建築の時代
パリ、近代建築の時代(20世紀前半、コンクリートの時代)
20世紀前半、パリは近代建築の壮大な実験場だった。パリの街並みに次々と鉄筋コンクリートによる建築が姿を現わしていく。この背景には、鉄筋コンクリートの発展★1とパリの道路規制に関する新法案★2の影響があったことも見逃せない。ペレ兄弟による《フランクリン街の集合住宅》(1904)は、まさにその両者の影響を受けてつくられた建築である。すなわち構造家F・エンヌビック(1842-1921)による柱梁システム(エンヌビック・システム)を用いることによって、また1902年法で可能となった前面中庭の制度を用いて初めて建設された。その意味でもパリの近代建築の幕開けを象徴する建物だといえよう。
アール・ヌーヴォーの時代は20世紀とともに次第に影を潜める。F・ル・クール(1872-1934)、H・ソヴァージュ(1873-1932)らの10年代以降の建築には、衛生学の影響を見ることができる。第一次世界大戦後の20年代には、パリは近代建築の黄金期を迎える。A・ペレ(1874-1954)は1923年に《ル・ランシー教会》を建て、またA・リュルサとともに数多くのアトリエ住宅を残すなど、依然として強い影響力を誇っていた。ル・コルビュジエ(1887-1965)の白の時代とほぼ同時期に、R・マレ=ステヴァン(1886-1945)、M・ルー=スピッツ(1888-1957)、A・リュルサ(1894-1970)ら、多くの建築家が装飾を排した建築をつくっている。パリのモダニズムはコルビュジエの一枚岩ではなく、むしろコルビュジエが異端児だったといえるほど多彩であった。30年代には例えばR=H・エクスペール(1882-1955)、J・ギンズベルグ(1905-1983、マレ=ステヴァンらに師事)、B・エルクーケン(1893-1968)らが活躍している。
今回あえてル・コルビュジエの建築は一枚も取り上げていない。コルビュジエの影に隠れていた多くの建築家に光を当ててみたいからである。コルビュジエなしの近代建築ともいえるかもしれない。それでも、ここに取り上げた写真はパリの近代建築のごく一部に過ぎない。まだあまり知られていない、パリの多様な近代への扉となれば幸いである。
★1──フランスのJ・モニエによる鉄筋コンクリートの発明(1867)、ドイツのM・クーネンによる鉄筋コンクリート構造計算方式の発明(1886)、フランスのF・エンヌビックによるせん断補強筋の発明(1892)など。エンヌビックによる柱梁システムはエンヌビック・システムとして、フランスはもちろん世界40カ国以上で普及することになる。
★2──ルイ・ボニエが起草した新法案(1902)は、道路と建築、中庭との関係を新しく取り決めたもので、1902年法としてその後60年代までほぼ変わることなくパリに適用された。パリの近代建築を成立させた大きな根拠となっている。
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pic A&E・オータン/A・ビゴ《アブヴィル通りの集合住宅》 [1] [2]
pic F・エンヌビック《エンヌビック自邸》[1] [2] [3]
pic C・クレン/F・エンヌビック、E・ミュラー《レ・シャルドン集合住宅》
pic A&G・ペレ/F・エンヌビック、A・ビゴ《フランクリン街の集合住宅》[1] [2]
pic F・ル・クール《ベルジェール通りの郵便局》《ベルジェール=トリュデーヌ電話局》[1] [2]
pic F・ル・クール《タンプル通りの電話局》[1] [2]
pic A・リュルサ、A&G・ペレ《スーラ通りのアトリエ住居群》[1] [2]
pic R・マレ=ステヴァン/J・プルーヴェ《マレ=ステヴァン通りの個人住宅群》[1] [2]
pic H・ソヴァージュ《アミロー通りの階段状HBM集合住宅》
pic M・ルー=スピッツ《オルセー河岸89番地の集合住宅》 [1] [2]
pic M・ルー=スピッツ《シテ・ユニヴァルシテール通りの集合住宅》
pic M・ルー=スピッツ《アンリ・マルタン並木通りの集合住宅》
pic R・マレ=ステヴァン《バリエ邸》
pic M&R・オンネケ《アドルフ・シェリオー通りの集合住宅》
pic T・ガルニエ+J・ドゥバ=ポンサン/J・プルーヴェ《ブーローニュ・ビアンクール市庁舎》[1] [2]
pic M・ルー=スピッツ《郵便局》
pic J・ギンズベルグ+F・エープ《ヴィオン・ウィットコム並木通りの集合住宅》
pic A・リュルサ《A・リュルサ自邸》
pic リュ・デ・ゾー(水通り)
pic ローラーブレード
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