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住宅/建築の内部をつくることから(2)|鈴木了二+今村創平

2006年2月16日、JUNKU堂書店池袋本店、4Fカフェ

住宅の内部を根拠づけること/がらんとした空洞
今村創平──初めから、核心的な話になりました。少し質問をさせてください。
《池田山の住宅》《神宮前の住宅》の二つの住宅を拝見した時、私はアドルフ・ロースのことを考えました。アドルフ・ロースは「住宅は外部から分離するべきである。すべての豊かさは、内部に表わされるべきだ」と述べています。この最近の二つの住宅では、以前の《麻布エッジ》などでは峻立するような外観があったのとは対照的に、内部はあるけれど外部がない、という印象を受けました。外部に関心がなくなったのか、外部についてのお考えを伺いたいと思います。
また「空洞」という言葉からは内部空間への強い関心を感じますが、それはどういった内部なのか。通常のインテリアの感覚とは異なり、洞くつのように外部が内部に織り込まれた状態なのだろうか。いかがでしょうか。

今村創平 鈴木了二
左:今村創平氏/右:鈴木了二氏

鈴木──ちょっと難しくなってきました(笑)。
まず現在に続く住宅の「室内」は、いつ生まれたのかと考えてみるとそう古くない、おそらくベンヤミンが『ボードレール』で指摘した「年金生活者の室内」あたりでしょう。私的と公的なもののバランスが崩れてきて、住宅のなかから私的なものとみなされていたものが外部に出てくるし、一方外のものが内に入り込んでくる。内外部が流動化していく状況です。そのようなベンヤミンの思考をなぞるように、アドルフ・ロースのインテリアが出てきたのではないかと思います。内部が外部化し、内外部が反転していく。これは私的領域にとって危機的な状況です。ロースはだから住宅を外部から分離しようとした。有用性と芸術性とが分離したように。だから外部はぶっきらぼうで、ニヒリスティック。対照的に内部は濃密です。伝統的な建物の外部にあった襞や色彩が内部に現われる。さらには内部空間がむしろ都市的なスケールをもってきます。ロースの内部は普通いうようなインテリアではない。それでは、現在における内部はどうか、と考えると、さらに事態は昂進しており、もはやその程度の認識では追いつかない。極端に言って床、壁、天井という部位を基準とするような見方をせず、例えば建築を装置、パーツの組み合わせと考えるだけで、内外部をわけられなくなる。しかし、内部をインテリアとして根拠づけていかないと、住宅の存在理由がなくなってしまうという強迫観念がある。内部は建築家の職能とともに危機的状況にあるのではないか、と思います。住宅というのは、どうしても間仕切りのようなものがでてきますね。でも実際の使い方をみていると、10年もたって、子供がいなくなると室が空いてたいがい最後には納戸化していく。しかし間仕切りをとっぱらうと、がらんとした空洞ができ、そこに残る何かがあります。これはもう内外部という区分けでは意味をなさない。使い勝手、機能を無視しても、なお残ってくる何かについての関心を、とりあえず「物質」という言葉で言いたいのですが。「空洞三部作」に内部への関心がご指摘のように共通して感じられるとしたらそのことかもしれませんね。
また「空洞三部作」について、外に向けて関心がないのではないかというと、そうではない。近年、住宅は隣との関係がシヴィアな場合が多いです。一種の領土問題ですね。そういう状況の中で、外部に積極的に開かれるべきというのも、あるいは排他的に閉じるべきというのも、どちらも違うだろうと思います。この3作品は、密集地域、高層建築にとり囲まれています。それは集って住むというような牧歌的な都市でなく、あたかもコロラドの断崖絶壁のようです。そのなかでグラウンドラインを考えること、周囲を2メートルほどあけ、広めの空域をつくることなどから、一見外に無関心のように見えますが、実は外部への即物的な新しいコンテクストが生まれているとも言えるのではないでしょうか。

「物質試行」は政治活動か
今村──鈴木了二さんは、藤田省三さんや市村弘正さんなど政治思想、社会学の研究者との交流がある一方、芸術家肌で、自室に篭ってジャズを聴く人というイメージがあります。それは、公的領域から撤退し、書斎に篭っていく態度ともとらえられます。
しかし以前鈴木さんから、外が晴れがましい場所、中が日常的な場所、という考え方は違うのではないか、とうかがったことがあります。具体的に東京という都市を考えても、外はウルトラポチョムキンのようなきわめて表層的な状況ですが、室内にこそ密実なものがつまっているのではないか。
ハンナ・アーレントは、「経済的利益の再分配や福祉を行うことが政治ではなく、アテナイの広場でディスカッションすることが政治」と言っていますが、内部/外部の問題と政治性の問題についてお聞きしたいと思います。調子に乗って言ってしまうと、「物質試行」は政治活動なのでしょうか。

『人間の条件』
8 ハンナ・アーレント
『人間の条件』

鈴木──僕の建築活動が政治活動!うーん、でもかっこよすぎですね。そういう側面があるといいと思ってはいますが。僕が篭って、ジャズを聴いてひたっているって話、まぁ確かにひたっているんだけど、だから公的な空間から撤退して、自分の空間に逃避している、というのは違うと思っています。このことを考える時にすごく面白いのは、ア-レントの私的と公的の概念規定です。僕はこれを読んで勇気がでました。皆さん、ぜひ『人間の条件』(ちくま文芸文庫、画像8)を読んでください。現代を考えるうえでの必読書です。
この私的、公的の話には前段があって、ア-レントは、人間の行動を「労働」「仕事」「活動」の三つにわけている。そして「労働」「仕事」には目的があるが、目的のない「活動」が人間にとって大変重要だと言っています。現代では、利害関係にひっぱりこまない、「没目的の判断」「美的判断」の判断力が大切で、それが「政治判断」に通じていくと考えています。アーレントによると、美的活動がいきなり政治に直結しているのですね。なぜなら、近代以前の「伝統」「権威」「規範」が、20世紀の全体主義の登場の後、一切無効となったから。基準の消滅。私たちは、アガンベンの言う「戦争か、内戦か」という状況のなかにいる。国際法が通用しない、すべてが警察化しているような世界です。その判断基準なき状況で判断しなくてはならない。この判断は美的判断と同じだとアーレントは言うのです。
その上でアーレントの考える「私的」というのは、生命を維持するためのもので、例えば家族の問題だと言っています。一方「公的」のモデルはポリスです。支配関係から離れ、自発的に、自由に判断を行なう空間。これこそが公的な空間だと言っているわけです。ところが、「社会性」については、意外にもアーレントは批判的です。「社会性」というのは、国民国家の登場と並列し力を得ていった。私的空間のなかにあった家族的なものが巨大化して、国家まで展開したものと考えています。空間性と同様に、社会性というとそれだけで価値があるように思う傾向がありませんか。
ここで建築に話を戻すと、建築のプランニングや使い勝手を考えることは、家族のなかでの社会性に応えているだけかもしれない。もちろんそれは必要ではあるけれど、それ自体があまりに目的化しすぎてはいないでしょうか。それが職能のすべてであるかのように。僕が「物質」という言葉を使うのは、「訳のわからない世界がどこまでも残っている」という感じです。社会性で解消できないものが常に残されてくることです。だから内部とは引き篭もりどころか、公的領域そのものであって、アーレントの「没目的判断力」の作動状態と共通していると思っています。建築には「社会的でなくてはならない」という既成観念がありますが、アーレントの考え方はそういった観念を根本的に変えるものだと思います。(3に続く)

CONTENTS
House & Atelier Bow-Wow
FIELD WORK
Photo Archives|五十嵐太郎
of photography|山岸剛
写真構成|新良太
地下設計製図資料集成
Fieldwork Tokyo
東京グラウンド
REVIEW
BOOK REVIEW|八束はじめ
海外出版書評|今村創平
海外出版書評|大島哲蔵
10+1 REVIEW
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TOPICS
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Project in Progress|青木淳
Dialogue: 美術館建築研究
現代美術館研究
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