《物質試行》とは何か

鈴木了二+八束はじめ

「聖ジェロームの書斎」
1 鈴木了二
『物質試行49----鈴木了ニ作品集1973-2007』

鈴木了ニ──今日は僕の作品集刊行にあわせ、八束はじめさんに来ていただき、お話を伺います。この作品集は、『物質試行49----鈴木了ニ作品集1973-2007』(写真1)というタイトルで、《物質試行48》までが入っている、49番目の物質試行です。僕はこの作品集を回顧録的なものにしたくなかった。これから始まりという気持ちで作りました。僕の好きな数人の写真家による写真集のようにも見えます。彼らが《物質試行》をどう捉えたか、ということが分かります。
八束はじめさんとは、長いつきあいです。八束さんは、建築を設計しながら、批評していくという新しい存在で、建築の意味、歴史を含めて考えながら、作り、また作りながら考えるという、作家であり、学者でもある。僕も書くことや考えること、批評することと建築を作ることを同じように考え、やってきましたので、僕にとって八束さんの存在は大きいものです。
実は八束さんは《物質試行》をいくつか実現してくれてもいます。国際花と緑の展覧会の《ミノルタ・フォリー(物質試行31)》、くまもとアートポリスでの《あしきた青少年の家(物質試行38)》は八束さんからいただいた仕事です。また、《映画「空地・空洞・空隙」(物質試行35)》を生むきっかけになった仕事を紹介してくれたのも、八束さんでした。ですので、八束さんは今回の作品集に前史的に関わっていると言えます。

八束はじめ──僕は「物質試行」を一番最初からは知りません。また、一番新しい《西麻布の住宅(物質試行48)》も見ていないので、両端を知らないのですが、しかしかなり多くをみていると思います。僕が最初に了ニさんに会ったのは、25年か30年前という大昔です。他に山本理顕さんも出席されたシンポジウムでしたが、 いくつか作品を見せてもらい、《S邸(物質試行3)》を良く覚えています。その時も《物質試行》とは何ですかと聞いた記憶がありますから、今日は、25年たってまた同じ質問をすることになりますね。ただ《物質試行1》から《物質試行49》までの34年の間に、同じ《物質試行》と言っても、違いがでてきたような印象をうけます。 初めて会って、《S邸(物質試行3)》を見せてもらった時の印象では、了ニさんは長髪で、暗い人でした(笑)。作品も重い。材料も石で重いし、形式も重い。それが第一印象だった。実は僕には少々重すぎという感じだった。しかし、その印象はどこかで変わり、僕は了ニさんの仕事に共感を持つようになっていった。今回の作品集で全作品を見ていっても、今に至るまで、了ニさんの作品は、軽くはなってはいない。でも、形式は変わってきたのかな、と思いました。そこが僕を引き付けていったのだろうと感じています。というわけで、「物質試行」はどこかで折り返し点があったのではないかと思いますが、いかがですか。

鈴木了ニ──僕には、継続したテーマで作っている、という自覚がないのです。建築は、その都度、敷地も違う、相手も違う、素材も違うし予算も違う、一回かぎりのものです。また、僕の場合は、展覧会とか、模型ともオブジェともつかないようなものや映画もあります。できるだけひとつの仕事を後にひっぱらないつもりでやってきました。ただ、仕事の後には常に謎が残るものです。むしろできてしまってから後、その仕事の意味を考えるということは、多いですね。 しかし、こうして作品集として並べてみると確かに、何か流れがあるように見えますね。フィクショナルなものかもしれないですが、本という形にすることで、なおさらそう見えてくる。流れがあって、変わっていって、という風に見えますね。

会場風景
会場風景

高橋由一と鈴木了ニ
八束はじめ──
今回の作品集で、二人の共通の友人であるボトンド・ボグナールが僕の文章を引用しています。僕が了ニさんのことを「われわれの世代で一番アートオリエンテッドな建築家」と書いた文章です。少し前に書いたものですが、今もその印象は変わっていません。建物だけではなく、了ニさんの文章を拝見しても、素敵な文章で、アーティストの文章だと思う。こういうのは僕には書けません。アートオリエンテッドということはご本人も意識していると思います。しかし、それだけでは、言い足りないところもあります。アートって曖昧な概念ですから。
先日、《金刀比羅宮プロジェクト(物質試行47)》をみてきましたが、建築を見る前に驚いてしまったことが二つありました。一つは金刀比羅宮に凄く大きい船のスクリューが置いてあった。金刀比羅宮さんは水運の神様だそうですね。そんなものがあることを想像していなかったので、びっくりしました。(笑)
もう一つはそのすぐそばにある高橋由一という絵描きの美術館です。高橋由一は明治時代の日本で最初の油絵の絵描きといっていい人です。これまた金刀比羅さんとは結びつかなかったので、この美術館にもびっくりしました。そして、鈴木了ニさんと高橋由一さんは面白い取り合わせだと思ったのです。
僕が書いた『思想としての日本近代建築』のなかにも高橋由一の名前が何度か出てきます。由一は、自身は「迫真力」と言っていますが、洋画のテクニックが持っているリアリズムにひかれ、もともと狩野派の絵描きだったのに洋画のテクニックを身につけた人です。三島通庸という山形県知事が、トンネルきりとおしの土木工事をした際、由一は自ら売り込んで、記録写真ならぬ、記録絵を描きました。それは、当時日本人が描いていた名所旧跡の絵とは全く違うものだった。由一自身もアートだと思って描いていなかったのだと思います。これがとても面白いのです。僕はそういうものと了ニさんの感性はどこか似ているように思います。了ニさんはアートオリエンテッドな建築家、一方、由一はアートオリエンテッドでない絵描きですが、物事に対する感性は似ているところがあると思いました。
もう少し説明します。金刀比羅宮のこの部分(写真2)をみてください。この場合、単にプラットフォームに鉄板を使うだけでも大変なのに、それを切り離して水平のトップライトにしている。またこれは、階段まで切り込んで、階段状になっている。本当に切り通しといいますか。こういうことをやると、その処理はものすごく大変です。この建築は、現場で色々な「事件」、というか昔の現代美術の文脈だとハプニングといったようなものが起こったのではないかと思います。そして了ニさんはそういった「事件」が起こるのを面白がっているように思えるのです。この金刀比羅宮プロジェクトには、土木工事のような側面もあったでしょうから。

会場風景
2 撮影:山岸剛

アートや建築とは違う、日常的で大変な工事というような出来事に、我々は引かれていくことがあります。由一と了ニさんは百年以上違うけれど、それを発見していく眼、という共通点があるのではないかと思いました。これが、第一の感想。建物に到達する前の感想ですけど。

鈴木了ニ──高橋由一は面白い画家ですよね。アカデミックなテクニックはないけれど、独自に試行錯誤をして、ヨーロッパ絵画に到達しようとしていた作家とみていいのですか。

八束はじめ──ワグネルですとか、一応先生はいました。また彼の先生に川上冬崖という人がいましたが、この人は地図を描こうとして洋画のテクニックを学んだ。しかしその地図がもとで、清国に日本の地図を売ったというスパイ容疑をかけられ、自殺しました。その弟子であった由一も地図を描きたかった。由一にとっては、地図を描くことと絵を描くこと、記録写真ならぬ記録絵を描くことが並列している。それは建築を作ることと、本を書くことと、模型を作ることと、映像作品を作ることとが等価になっている了ニさんの考え方と似ているのではないか、と思います。

鈴木了ニ──由一の絵画には、人に根源的に働きかけるものがありますね。よく似た絵はあるし、テクニックは由一より上手な画家はいますが、発見的な経緯のなかでその度切開していくような由一の絵画は、日本では珍しいと思います。近代の前段階でそういう絵画を残したことは、面白いことだと思います。
確かにわれわれが何か作業を始める時は、いろいろな予期しないことが起こってきます。スタッフがチームワークのなかでどう動くかということや、現場で日々起きてくることなど。確かに僕にはそこで何かが起こることを待っている、という感じがあります。「面白がる」というと語弊があるから、「待っている」と言った方がいい。そして何かが起こったなと思うまでは《物質試行》と呼びたくないのです。良くできたけど、何かが起きなかった作品には、物質試行としての番号をつけません。つけたくなる時は予想しないことが起きてきた時ですね。

事件としての建築
八束はじめ──
普通、建築の分野では予想しないことが起こることをできるだけ回避したいと思うものです。しかしそれを待っている、ということは、とても了ニさんらしいと思います。
僕は、金刀比羅宮についてのレクチャーを何度か聞いていたので、この建築についてわかっているつもりでいましたが、実際に行ってみて、この建築は事件だった、出来事だった、ということが良く分かりました。少し細かいことをお聞きしたいと思います。この(写真3)コールテン鋼の壁柱というか、壁というか、これはハニカムになっているんですよね。これは厚さが70ミリくらいですか。

会場風景
3 撮影:山岸剛

鈴木了ニ──120ミリですね。

八束はじめ──120ミリ!そんなにあるんですか。大きいから薄くみえますけど。

鈴木了ニ──高さは6mあります。一見壁ですが、コンクリートの厚みでは絶対でない薄さというのをやりたかった。

八束はじめ──この後ろにある擁壁も、全部同じ厚さにしているのですか。

鈴木了ニ──そうですね。ただ、裏側の擁壁は鉄だけではなく、コンクリートも使っています。日本の擁壁というのは鉄筋コンクリート造以外には申請が通らないのです。

「聖ジェロームの書斎」
4 撮影:山岸剛
「聖ジェロームの書斎」
5 撮影:山岸剛

八束はじめ──逆側の社務所のところも擁壁がありましたね。これは石ですよね(写真4)。

鈴木了ニ──はい、全部石なのですが、ここも裏にコンクリート擁壁が入っています。初めは石だけで設計しました。330ミリ各の石の角柱です。垂直にして、自立擁壁にするという方法を考えついた。上にいくにしたがって本数を増やす。重心が移っていくので、土圧をうけられる。でもこの方法で申請をしたら、通りませんでした。審査会を通さないとだめだということで、そうなると数年かかるので、諦めてコンクリートでやっています。

八束はじめ──この写真のところ(写真3)ですが、まるで無垢のようにみえます。これは、現場で溶接をしているのですか。

鈴木了ニ──この敷地は一見広そうですが、がけのちょっと平坦なところに神社が増築されて建っているため、山の上に作業スペースが殆どないのです。ですから舟みたいに、大きいパーツを下で作り、現場で溶接して全部一体化していくということを考えました。 山道を登って運搬できる、最大の大きさを工場で作って、上で溶接しました。ここですと、6Mの上までと、下の床も少し入って、ワンピースになっています。ここは、全体で6つくらいのパーツで造っています。パーツ自体は、鉄で強そうだけれど、全体が溶接され固まるまでは、薄いのでふにゃふにゃです。ですから、ぎっしり足場を組み、建て込んで、全部溶接して初めて安定する。これ(写真5)が、全て溶接し終わって、足場を解体したところです。上向きで溶接するのは、普通タブーですが、特別な器具を開発して、あちこちでテストして練習してからやってもらいました。

八束はじめ──特に角は溶接されていることが、本当にわからなかった。無垢みたいにみえるところもあって。できれば、無垢にしたかったのですか。

鈴木了ニ──そこまでは考えませんでしたが、リチャード・セラの鉄よりも精度を上げて、リジッドにやりたい、という気持ちがありました。

八束はじめ──ミースの《バルセロナ・パビリオン》の室内のマーブルの壁。あれも中に鉄骨が入っていてはりものですが、端部は貼厚をみせないよう、無垢の役ものを使っています。同じようなことを考えたのでしょうか。

鈴木了ニ──無垢のように見せたかったわけではないですが、貼目はみせたくなかったですね。全て溶接でやりたかったのは、目地を出したくなかったからです。現代の建築の特徴ですが、工業製品を使うと、当然必ず目地がでてくる。コンクリートの打ち放しでおもしろいのは、目地がないからです。でもあれも打ち継ぎのところで目地がでます。しかし鉄で溶接すると完璧に目地なしでいける。目地の問題はとても重要だと考えています。

八束はじめ──トップライトのスリットも、目地の大きいもの、と考えられるかもしれませんね。工業的なパーツの要請からくる目地はなくし、トップライトのようにもうひとつスケールをあげたところで作っていこうという感じですよね。そうするとどういう事件が起こるのか。この建築をみていく醍醐味だと思いました。ここの床のレベルは何か外在的なことで決まってきたのでしょうか。

鈴木了ニ──斜面とのつながりで適切なレベル設定だというのはありました。また、階高は一定のかなりの高さが欲しかった。

八束はじめ──部屋の上にまだ空間があまっていますね。無駄といえば無駄だけど、でも、このスケールが生きていますね。普通は、部屋の高さがこれくらい欲しいから、で階高が決まるけれど、この建物はそうではないことで決めている。そうするとまた、加重の問題、モーメントの問題。いろいろな問題がでてきます。

鈴木了ニ──山がものすごい迫力なので、これくらいやらないと対抗できない。階高を低くすることは考えつかなかった。設計をする前段階で、最初にまず山の模型を作りました。山全体のプロポーション、起伏、崖の状態を考えて、また既存の階段が何本かとりついているから、その関係からレベルを考えました。

八束はじめ──何平米欲しいから、坪いくらで予算いくらで、という普通の話ではないですね。工事用の道路の話から始まってくる。やはり、大事件のなかに建築が建ったという感じがします。

階段と地下空間
八束はじめ──
僕は、了ニさんの作品は地中の空間である、という印象を持っています。そういえばアンジェリコの絵のお棺の部分の模型を展示されたこともありましたね。《ギャラリー間展覧会「空地・空洞・空隙」(物質試行35)》(写真6)

会場風景
6 撮影:安斎重男

鈴木了ニ──誤解だ!(笑)地中の建物はやってないですよ。

八束はじめ──上に階段をつけるから地中にみえるじゃないですか。地上にあっても地中にしたいのか、と思いました。

鈴木了ニ──そうか、上を階段にしたいと思いましたが、その下のことは考えていませんでした。ただ今の東京を見ていると、一階のグラウンドレベルが既に地下2階くらいの感じがしますよね。まわりの大きな建物に囲まれてしまっていて。

「聖ジェロームの書斎」
7 撮影:安斎重男
「聖ジェロームの書斎」
8 撮影:安斎重男
「聖ジェロームの書斎」
9 撮影:藤塚光政

八束はじめ──《麻布EDGE(物質試行20)》(写真7)をみるとエレベーションも地層みたい。これは麻布トンネルから写っているからなおさらです。遺跡を掘っていったらでてきた地層みたいです。

鈴木了ニ──確かに、遺跡って階段が出てくると遺跡らしさが出てきますよね(笑)。

八束はじめ──階段じゃないのに、階段のあとみたいなものがついているし。

鈴木了ニ──この時は、本当はこちら側のファサード(写真8)を意識していたのです。こちらのファサードに対して、折り返したところに全く違う建物の立面があるというような考えで、階段の部分を作りました。フラットな面とマッシブな面を接合していく、という考え方でした。

ないものの実在性へ
八束はじめ──
実は、金刀比羅宮の次の日に直島のSANAAの《海の駅 なおしま》をみて、二つはとても対照的だと思いました。《海の駅 なおしま》は、ものすごく細いパイプで支えられていて、おまけにそれを白く塗ってしまうという作品です。
その二つの作品をみて、僕のシンパシーは圧倒的に金刀比羅宮の方にあった。了ニさんのものは厚くあって欲しいし、物があって欲しいし、白く塗りたくないだろうし。了ニさんの物に対する執着については、お聞きしなければいけないですね。

鈴木了ニ──物質そのものへの考え方は、少し変わってきたのかなというような気がしています。《T宅(物質試行5)》(1978)(写真9)では、素材じたいに強い関心が向いていました。この前に《S邸(物質試行3)》(1976)というのがあって、この住宅は、大変豊富な予算がありました。その時、僕らは《ヴィラ・ジュリア》をやろうと思った。石などのバロック的な材料を使いました。その後でローコストの《T宅》があったのですが、これを《S邸》と同じ気持でやったのです。素材のヒエラルキーを壊して、プアーな材料をいいものとして使って、ディテールなどにも執着して。これはそういう気合で取り組んだ住宅です。バラック的な材料による《ヴィラ・ジュリア》です。
しかし、一番最近の《西麻布の住宅(物質試行48)》(2006)(写真10)あたりでは、物質そのものよりも、むしろ空気とか、光とか、そういうものがどうなるか、ということに気持ちがむいていました。それを出すためのディテールとか材料をどうするかというふうに動いたかもしれない 。
《物質試行》が変わったとしたら、それは途中から、「何もなさ」に対する意識が高まったということだと思います。八束さんだから言いますが、そのターニングポイントは、今思うと冷戦崩壊だったような気もします。ないものへの実在性、ないものの存在している力みたいなものへ関心が向いてきた。その辺から変わってきたのかもしれません。石とか鉄とか、不透明で内実がある物質というより、風、光といった透過性のあるものの物性みたいなものへと関心が移ってきたのかな。

会場風景
10 撮影:山岸剛

「物質」という言葉から考える
ただ《物質試行》をスタートした頃から一貫して変わっていないのは、「空間」という言葉を使いたくないということです。僕が建築をはじめた頃は「空間」という言葉が充満していました。「空間的だ」ということが一つの評価となっていた。僕はその言葉に押し付けがましさのようなものを感じていました。その後ポスト・モダン的な状況になると一層そういった言説が強くなってきた。それへの反発から「空間」という言葉を使わずに空間を記述できないかということを、30年前に考えました。当時は本を読むときも「空間」という言葉が出てくると嫌な気持ちになった。ですから、エドガー・アラン・ポーなんか好きでした。彼の宇宙論である『ユリイカ』は「空間」という言葉を使わずに空間を記述していました。「物質」という言葉が沢山でてくる。そういう目で読むと、ボードレールも格好いい、というふうに本を読んでいました。
歴史的なことを自分なりに考えますと、「空間」概念が規定する空間的状況がでてくるのが17世紀くらいのバロックの時期ではないかと思います。専制君主なり、ローマ教皇なりが空間を操作することによって、采配をふるっていく。そこに軸線なり相互貫入なり空間を前提とした色々な言葉が出てくる。 ルネッサンスまでにはそういう言葉はありませんでした。空間を構成する用語がバロック以降にで揃ってくる。これを「空間」という言葉で捕まえられると思ったのが19世紀ごろの哲学者たち、シュマルゾーやヴェルフリンなどだったのではないか、と。ただ言葉が追いつくと、その活動自体は終わっているという感じがします。ですから、20世紀には「空間」という言葉は既にうまく機能してないと思いました。しかし、実際には、70年代にあいも変わらず「空間」という言葉がばんばん使われていた。そういう状況になじめなかったので、「空間」という言葉は使いませんという気持ちで「物質試行」となったのです。

八束はじめ──僕には『空間思考』という本があります(笑)。確かに、「この建築には空間がない、ある」という言い方をよくします。僕は鈴木了ニの作品には空間を感じます。ただ、それを「空間」という言葉で言うのか、「物質」という言葉からアプローチするのかで違ってくる、という考え方は、とても面白いことです。 歴史的に考えると、「空間」という言葉はアリストテレスの昔からありますが、それは「無限の空間」、というかひろがりを意味しています。カントが典型的ですが、認識のカテゴリーとしてある。造形の対象としての「有限の空間」という意味で「空間」が使われはじめたのは、ドイツ語圏では19世紀くらいから、英語圏で「空間」という言葉が使われるのは、20世紀に入ってからです。日本では戦前には殆ど使われていません。堀口捨巳さんが少し使いますが、彼が「空間の構成」と言い出すのは、やはり戦後になってからです。そしてこの言葉を流行らせたのは、丹下健三さんだと思います。

鈴木了ニ──やっぱり。(笑)

八束はじめ──「建築」という言葉も幕末に入ったわけですから。われわれが知っているような古建築、法隆寺であれ、桂離宮であれ、東照宮でもいいのですが、それらはそもそも「建築」ではない。「建築」とは言われてなかった。しかしわれわれは平気で、古建築に対して「建築の空間」という言葉を使います。同様に、バロックの時代にもspazioという言葉を使っていないはずです。でもわれわれはバロックの建築に「空間」を感じるわけです。その感覚と概念というのが、少しずつずれていることに僕は興味があります。われわれは、16世紀の人とは違う感覚でバロックの建築なり、日本の古建築なりをみているかもしれないのです。同じような見方をしている、という保障はない。
了ニさんの場合だと「見る」ではなく、「作る」ということだと思いますが、こういうことを意識しながら、作っている人がいる、ということはとても面白いことだと思います。
それと、今のお話で、了ニさんはフランク・ロイド・ライトを好きでないということがとてもよく分かった。(笑)ライトを「空間」でといたのはブルーノ・ゼーヴィですから。しかし、一方で了ニさんは、コルビュジエもミースもアアルトもお好きだと思います。みな空間がある人ですが、了ニさんは、彼らの作品を「空間」ではない見方でみているのでしょうか?

鈴木了ニ──そうですね。「空間」的ではないところで何かを言えないと、僕は好きになれません。特にコルビュジエの作品には「空間」という言葉を使いたくないですね。

八束はじめ──コルビュジエも初期の時代は、「空間(l'espace)」は使わない。「ボイド(vide)」ですよね。

鈴木了ニ──その方がわかりやすいですね。

鈴木了二氏
鈴木了二氏
八束はじめ氏
八束はじめ氏

コルビュジエとテラーニ
八束はじめ──
以前、ピーター・アイゼンマンはテラーニ論のなかで「from object to relationship」という言葉を使いました。リレーションシップというのは了ニさんの仕事について語る上で重要な言葉だと思います。僕が《物質試行3》をみせてもらった時にあまり興味を持てなかったのは、オブジェクトはふんだんにあったけれど、リレーションシップを感じなかったから。僕自身の興味が、実体のある物よりも抽象的なものにあったからだと思います。しかし、その後了二さんの作品はリレーションシップの方に向かってきたと思っています。
了ニさんは、コルビュジエよりさらに、テラーニがお好きだと思いますが、テラーニをどう捉えているのかについて、伺いたい。

鈴木了ニ──世の中には、巨匠という人がいますよね。僕は、ル・コルビュジエもアアルトもミースもすごいとは思いますが、彼らを巨匠と括ってしまうのはもったいないと思っているのです。特にコルビュジエは、冗談がわかる人で、巨匠らしくないですよね。彼の建築にもそういうところがあります。そこで、僕はコルビュジエを巨匠扱いしないために、テラーニという人をもってきたい。
テラーニはコルビュジエ作品集を横において設計していたくらいコルビュジエを尊敬していました。しかし師匠よりも弟子が冴えているということは良くあることです。テラーニは若くして死に、おまけにファシストだったこともありますから、いつもマイナー扱いされます。しかし、彼は、近代というシステム、価値観があると思われた時代に、メインストリームとは違うところに、もうひとつの秩序をみつけた人だと思います。そして、リレーションシップの極地のような作品を作った。僕なりに言い換えれば、その作品は、物質に執着しないけれど《物質試行》の極地ともいえます。
それに比べるとコルビュジエは描く線ひとつとっても、いい加減でだらしないところがあります。そこが面白いところでもあるのですが。そこで、僕は愛情を持ってコルビュジエをB級と言いたいのです。映画監督のブライアン・デ・パルマとコルビュジエの二人を、B級としたらどうか、と思っています(笑)。そうすることで、偉大なコルビュジエのイメージから離れ、コルビュジエの色気というか、本当の魅力がみえてくると思うのです。
実は、僕なりの建築家の系譜があります。ベーレンス、ワーグナー、ミース、コルビュジエという流れではなく、アドルフ・ロース、ピエール・シャロー、ジュゼッペ・テラーニへとぬける、もうひとつの系譜です。そして、これをスカルパまでつなげて考えたいのです。そこには、クラフトマンシップが持っている知性というものがある。なぜこの系譜がいつまでもマイナーなのか、といいたいです。

八束はじめ──その観点は面白いね。テラーニは、ある程度の数の作品を残した人ですが、どの作品も良いですか。

鈴木了ニ──A級の人はあれがいいとか悪いとかいうような選別をつけられないような気がします(笑)。

八束はじめ──それは、すごい。(笑)
ピーター・アイゼンマンの作品は、リレーションシップはあるけどオブジェクトは全くない。彼は、全部ペンキで塗ってしまって平気な人です。だから、「物質試行」ゼロ。リベスキンドには多少あるけど、クラフトマンシップは全然ない。ではテラーニはどうかというと、プロポーションとコンポジションで持たせている作品と、物を作って、それに対する色々な事件を起こしている作品と分かれると思う。後者の最たるものは、《カサ・デル・ファッショ》。これはお金があったということもあるでしょうが。《サンテリア幼稚園》はあまり「物質試行」じゃないという気がするけれど、どうでしょうか。

鈴木了ニ──「空間」と思わず言ってしまいそうですが、むしろ「空間」とはいえないような「何もなさ」の感じがいいですよね。子供たちのための建物なのにいやに天井が高くて、小さな子供たちの頭の上が大きく空いていて、「何もなさ」の、そのプロポーションがとてもいいと思う。あれは「物質試行」ですよ。

八束はじめ──そうかな。あれは「空間試行」だと思うけどな。このあたりは、微妙なところですね。
テラーニときたら、リベラです。《マラパルテ邸》はリベラのものでないという悲しい説もありますが、僕はリベラが関与していたという説に固執しているのです。《マラパルテ邸》は有名な階段建築ですが、あの屋上の階段のところが地上で、あの建築はどうみても地下空間を作っているように見えます。了ニさんとの共通点を感じるのですが、どうでしょうか。

鈴木了ニ──なるほど。でもマラパルテ邸と僕の仕事はかなり違うと思うな。この建物はとても好きですが。僕はもう一つの地上を作ろうと思っているのですよ。

ないものの実在性へ
八束はじめ──
例えば、コルビュジエという人は天上を作りたい。そして、屋上空間をつくって、そこに至る経路をつくりたいわけです。でも了二さんの作品には天上を作りたいという感じがしません。その下の地上を作りたいという感じで、僕からみると、やはり地下空間が作りたいのだと見えるのです。

鈴木了ニ──でも東京は、もう既に地下であるという感じですよ。もうはじめからグランドラインは頭の上にあるという感じだと思いますよ。

金刀比羅宮の屋根
今村創平──金刀比羅宮の屋根をどのようなお考えでやられたのか、お聞きしたいと思います。《成城山耕雲寺(物質試行33)》(1991)と《金刀比羅宮プロジェクト(物質試行47)》(写真10、11)(2004)では日本の古典的な屋根を採用されています。それはこの二つがお寺やお宮だったためそのような屋根を作るという制約があったのでしょうか。それとも鈴木さんが敢えてそうされたのか。 現在、屋根をデザインするという機会はなかなかありません。普通は平らな屋上になってしまい、屋根というものを意識しないですまされるのです。今まで鈴木さんが屋上に階段がのぼる作品を多く作っていたのは、単に階段が好きだから、と思っていましたが、今日のお話で、屋上に触らずに、平らにすることへの気持ち悪さがあるのかな、と思いました。そのこととあわせて、屋根について考えたことを教えてください。

『神宮前の住宅』 『池田山の住宅』
左:10 撮影:山岸剛/右:11 撮影:山岸剛

鈴木了ニ──面白いご指摘をありがとう。今わかりました。そういえば確かに、屋上をまっ平らにすることの根拠のなさが、気持ち悪いと思っています。日本の江戸時代までの建物には必ず屋根があるわけです。その屋根というものは一体なんなのか、と考えながら、しかし今のわれわれがそういう屋根を作ることの根拠もないわけで、くすぶっている状態がありました。
金刀比羅をやってみてはっきりとわかったことは、屋根はランドスケープに属してる、ということでした。近代的な建築は、あたかも白い船が出航してくるように単体で、ランドスケープから切り離されてでてきているわけです。コルビュジエも含め、現在建っているホワイト・キューブも、まさにそういう感じで、その場合には屋根というものは必要ないわけです。
金刀比羅の場合は、山の斜面や森の鬱蒼とした傾斜や断崖のなかで、いきなり長方形の箱を持ってきたら強烈な違和感が出てくる。また周りに古い遺構があり、江戸時代の良い建物のいくつかが屋根を持っていて、ランドスケープの繋がりの中に建築を巻き込んでいく、とても強い装置として、屋根が存在していた。そこで、最初から屋根をちゃんとやりたいと思いました。そして、近代建築にはまる正三角形切り妻のような屋根ではなくて、日本の歴史に入りこんだ古典としての屋根造形の方が面白いだろうと思いました。普段やらないので、やりたくなった。ようし天平をやろう、鎌倉もやろう、というような(笑)。どうせやるのなら、この際、繊細と豪放の両方ともやってしまおう、と思いました。
本堂の向かいに建っているお礼所は檜皮葺にしました。金刀比羅では、33年がかりで檜皮をためて、遷座祭ごとに屋根を葺き替えます。この檜皮は現在ではとても高価な材料です。それが使えるということで、檜皮葺しかないと思いました。檜皮を使えば、目地なしの屋根ができるわけです。瓦とか金属パネルというのは必ず目地が出てしまいますが、檜皮だったら目地なしで、ある厚みで屋根を作れる。独特のそりのある、鎌倉の初期の屋根を狙っています。これについては、歴史の先生や宮大工に聞いて、随分研究しました。図面に落としても、屋根だけは、図面と実際の印象が全然違うのです。屋根以外は全部プロポーションが分かるのですが。屋根だけは別ものでした。
もうひとつのほうの斎館(緑黛殿)の屋根には瓦を使いました。隣接する絵馬殿が瓦であったことにもよります。瓦といえば天平、ということで、唐招提寺の第一次案や法隆寺の食堂などを念頭においてやりました。
このように屋根は、当時のやり方を踏襲しつつ作っていったわけですが、でも建築全体をそうしてしまうと、今度はキッチュになって、浮いてしまうわけです。どこかで切断しないといけない。だから柱は鉄でいきたいと思いました。鉄という現代的な材料とぶつかるように、古来の屋根がある。現代だから起こりえる一回的な出会いとして出来事としてやりたかったわけです。
屋根と屋上につく階段のことを考えますと、やはり水平線に対しての居心地の悪さという理由がありますね。だからといって水平でなく斜めであればいいというものでもないわけです。僕の場合は、もうひとつの傾斜する地盤として、階段が出てきているのかもしれません。

八束はじめ──了二さんは、こういう屋根も楽しんでやっていると思いました。
私の幻想ですが、何百年も経ってあれが遺跡になった時、地層として、上の方が古い材料で下の方が新しい材料が出てくる、というのが面白いな、と思いました。
そういえば、《成城山耕雲寺》は、最初はもう少し高いレベルのはずだったけれど周囲との関係で下がってきたわけですよね。やっぱり地下が呼んでいるのではないでしょうか。(笑)

[鈴木了二]
1944年生まれ。建築家。1968年早稲田大学理工学部建築学科卒業。竹中工務店、槇総合計画事務所を経て、1977年早稲田大学大学院修了後、fromnow建築計画事務所を設立。1983年鈴木了二建築計画事務所に改称。現在、早稲田大学教授。1977年「物質試行37 佐木島プロジェクト」で日本建築学賞作品賞を受賞。また2005年、「物質試行47 金刀比羅宮プロジェクト」が第18回村野藤吾賞に輝く。美術家とのコラボレーションや映画の制作も行なう。ICC企画展「バベルの図書館」において《物質試行39 Bibiloteca》(1988)、16mmフィルム《物質試行35 空地・空洞・空隙》(1992)。主な著書に『建築零年』(2001)や『非建築的考察』(1998)などがある。

[八束はじめ]
1948年生まれ。建築家・建築批評家。東京大学都市工学科卒業。同大学大学院博士課程中退。1985年に建築設計事務所UPMを創設。2004年以降、芝浦工業大学工学部建築工学科教授(建築計画・理論)。ユニオン造形文化財団研究助成(2002)、土木学会デザイン賞(2002)受賞。作品に《文教大学体育館》、《文教大学センターハウス》、《WING苦楽園》、《白石マルチメディア・センター》、著書に『ロシア・アヴァンギャルド建築』(1993)、『ミースという神話』(2001)、『思想としての日本近代建築』(2005)などがある。

*山岸剛氏撮影写真の原画は、カラーです。

[2007年3月11日、青山ブックセンターHMV店]

200706


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