世界建築レポート[8]伝統と西洋化のあいだに揺らぐ現代イラン建築

マスミ・メイサム

1950年代後半に日本では伝統論争が起こり、決着はついた。しかし、イランでは建築が近代化され始めた時期から今日まで、建築は西洋と伝統のあいだでゆれている。以下の文章はその経緯を補足するものである。

初期西洋化
イランと西洋は、その交流の歴史の長さに等しい建築交流の経緯を持っているが、近現代に注目してみると、欧州の建築様式を本格的にイランへ導入したのは、1920年以降のパーラビ王朝の創立者であったレザシャの主導による近代化および西洋化政策の一環としてであった。国の近代化にともない、伝統的な社会システムに存在しなかった銀行や裁判所などの新機能が必要になり、それらの機能の輸入とともに、その空間を提供する建築も必然的に西洋的であるべきだという認識によって、これらの建築の創造もヨーロッパ出身の建築家に任せることになった。パーラビ王朝の初期に活躍していた外国人建築家たちのほとんどは、当時の古代ペルシア建築の調査でイランを訪れていた考古学者であった。その一方、国の政策として、アケメネス朝(紀元前550年〜紀元前330年)からイスラームの時代までの歴史を最も輝いた時代としてアピールしたこともあり、この時期に建てられた建物のなかには、イランのアイデンティティとしてペルシア建築のヴォキャブラリーを引用する建築表現が多く現われた。もちろん、ヨーロッパ出身の建築家による建築であったために、その表現手法もヨーロッパ的で古典主義を思わせるものであった。こうしてイラン建築の近代化の第一歩においては、古典と定義づけられていた「イスラーム期以前の建築記号または要素」を用いた一種の古典主義建築または折衷建築が生まれる。

1[左]──ルイ・マルコフ《旧郵便局庁(現郵便博物館)》Tehran, Iran, 1930s.
2[中]──アンドレ・ゴダール《イラン考古博物館》Tehran, Iran, 1930s.
3[右]──ルイ・マルコフ《アヌシラワン・ダドゥギャル高等学校》Tehran, Iran, 1940s.

モダニズム
しかし、次第に、欧州留学から戻ったイラン人建築家たちの登場によって、国際様式などの最新の建築の動きもイランへ紹介される。このムーヴメントの建築を代表する人物として注目すべきなのがモフセン・フルーギ(Mohsen Furughi)である。パリのボザールを卒業していたフルーギは建築家のほかに、国会議員として政治活動も行なっていた。さらに父親がパーラビ朝の初代総理大臣を勤めていたこともあって、政治世界に大きな影響力を持っていた。したがって、建築の社会的地位の向上に高く貢献した人物であった。ボザールの卒業生であったフルーギ自身の作品は、新古典主義的な言語を持ちながらも、イランにおけるモダニズムの第一人者の地位を確保させるものであった。1941年、テヘラン大学の建築学科が近代的な建築教育を行なう学校として設立され、フルーギはその設立に関わるだけではなく二代目の学長として、イランにおける建築教育の基礎作りに貢献した。
このようにイランのモダニズム建築は、西洋建築(特にフランス)の強い影響の下に形つくられる。当時の特徴を一言で言い表わすと、ヨーロッパで学んだモダニズムをいかに忠実に再現するかがこの時代の建築家の目的であったといえよう。

4[左]──テヘラン市内にある近代建築
5[右]──モフセン・フルーギ《メラット銀行》
6[左]──ファルマンファルマヤン《絨毯博物館》
7[右]──フシャング・セイフン《セパフ銀行》Tehran, Iran, 1970s

このムーヴメントの延長線に登場する注目すべき建築家の一人が、フシャング・セイフン(Hushang Seihun)である。ボザールの卒業生である彼も、イランのモダニズム建築を語るうえで重要な人物である。しかし彼を有名にした理由は彼のモダニズム建築だけではなく、独特なモニュメンタルな霊廟建築であった。彼はテヘラン大学の建築学科を卒業した後、フランスのボザールに留学するが、当時まだ学生であった25歳のセイフンは、医者であり哲学科者であったブー・アリー・スィーナー(980-1037)の生誕1000周年を記念した霊廟の建設のコンペに参加し、最優秀賞を受賞する。スィーナーは古代ギリシャ哲学をイスラーム世界に紹介した最も重要な学者の一人である。西洋では医学の父と言われ、17世紀まで彼の医学書がヨーロッパで教科書として使われたほど、イランと西洋の科学に影響を与えた人物であった。セイフンがスィーナーのこのような特徴を象徴する建築のコンセプトとして、ギリシャの建築のヴォキャブラリーを用いて、霊廟の建物をギリシャ神殿のように設計した。一方、その屋上にランドマークとしてスィーナーと同時代のイランに建設されていた《ゴンバドガーブス(Gonbad Ghabus)》というレンガ造り塔を連想させる軽やかなコンクリートのタワーを設けた。イランの西部にあるハメダン市に建っているこの建物では、ペルシア建築の要素をギリシャ建築の要素と絶妙な感覚で折衷しながらも、新たな建築表現が創造されている。この作品の成功によって、その後セイフンが霊廟の建築家と呼ばれるほど霊廟の設計を担当することになった。モニュメント建築である霊廟においては、彼は独自の手法を持って、イランの伝統的な建築を連想させる建築を創造するが、オフィスや一般建築においては、《サパフ銀行》で見られるようにモダニズムに忠実な作品を設計していた。

8, 9──フシャング・セイフン《ブー・アリー・スィーナーの廟》Hamedan, Iran, 1952.
10[左]──フシャング・セイフン《カマロルモルクの廟》Neishabur, Iran, 1962.
引用出典=http://archnet.org/mediadownloader/LibraryImagesBig/image/147701/0/IMG12667.jpg
11[右]──フシャング・セイフン《オマル・ハイヤムの廟》Neishabur, Iran, 1962.
引用出典= http://archnet.org/mediadownloader/LibraryImagesBig/image/147698/0/IMG12664.jpg

批判的地域主義
イランの近代建築で起こる3つ目のムーヴメントは、母国で建築の基礎を学んだ後に西洋、特にアメリカで建築の教育を受けた建築家たちを中心とする運動である。彼らの時代は60年代のポストモダン運動と重なることもあり、普遍的な国際様式の採用に疑問を持ちながら、新たな建築のあり方を模索する建築家たちの運動であった。形態としての伝統的要素ではなく、伝統建築の背後の思想に注目した建築の創造がこの運動の特徴であった。具体的な創造手法は、イランの伝統建築の背景にあるセンスを建築家が見出し、現代的な建築技法を持って表現するものであった。この運動の代表的な論文としてナデル・アルダラン(Nader Ardalan)の「The Sense of Unity: The Sufi Tradition in Persian Architecture」(1973)があげられる。この論文はイランの伝統建築の背景にある思想についてはじめて述べるものであった。この論文では、イランのイスラーム建築の背後にはスーフィズムというイランなどに広がった神秘主義が存在し、その世界観がイランの伝統建築において実現されているとし、現代建築においてもこのような神秘的な特徴を持つ建築を設計するべきであると論じる。彼は、この説の実現に向かって、1972年にテヘラン近郊にビジネススクールを設計した。

12[左]──ナデル・アルダラン《ビジネススクール》Tehran, Iran, 1976.
引用出典= http://archnet.org/mediadownloader/LibraryImagesBig/image/14636/0/IAA1421.jpg
13[中]──《テヘラン市劇場(シャヘル劇場)》
14[右]──ホセイン・エーテマド《アザディ・タワー》Tehran, Iran, 1970.

この潮流に属するもう一人の重要な建築家がカムラン・ディバ(Kamran Diba)である。彼は建築学科を卒業後、社会学を学んだ経歴を持ち、建築に社会学的な観点からアプローチした。彼の作品の《ナマズハーネ(祈りの場)》は、軸がずれた天井の持たない2つのコンクリートのキューブから成り立っている。形態だけに注目するとこの建物は安藤忠雄の《光の教会》などに通じる現代的なものである。しかしこの建物に関しては建築構想ができるまでの経緯が重要である。
《ナマズハーネ》のすぐ隣には、《イラン現代美術館》がある。現代美術館の設計者であったディバは、建築現場で働いている労働者がいつも決まった場所で祈りを行なっているということに気づく。しかし彼らがギブレの方向(お祈りのとき必要なメッカの方向)を間違えているとわかり、労働者のためにメッカの方向を強調するような祈り場を設計したのが《ナマズハーネ》である。ディバが建築の社会性をいかに認識していたかを示すエピソードとして、《ナマズハーネ》の経緯を述べたが、実際、彼の建築からは同様の配慮が読み取れる。その一例が《シューシュタル・ニュータウン》の設計である。メソポタミア文明からの歴史を持ちイラク国境に比較的に近いイランの南西に位置するシューシュタルという町の近郊に、ある企業の職員たちの居住エリアを計画するこのプロジェクトでは、車道と歩道を完全分離するなどの近代的な原則を導入すると共に、シューシュタルという町の都市の形成原理や、細かなデザインのディテールまでを調査し、ニュータウンの住民が受け入れやすいデザイン言語の統一を計った。
イランにおけるこの建築の動向を世界的な建築の動きのなかに位置づけようとすると、おそらく批判的地域主義といわれるカテゴリーに分類できるであろう。この流れに属する建築家は、西洋の建築文化や技術を尊敬し、自作にもできる限り応用しようとするとともに、建築における地域性の重要性を認識し、地域に配慮した建築活動を行なった建築たちである。

15, 16[左・中]──カムラン・ディバ《礼拝場》Tehran, Iran, 1960s.
17[右]──カムラン・ディバ《現代美術館》Tehran, Iran, 1960s.
18-20──カムラン・ディバ《シューシュタル・ニュータウン》Tehran, Iran, 1977.

反西洋化
1979年のイラン革命によって、建築活動はほぼ中断される。そのあとも8年間イラクとの戦争が続き、建築活動の低迷が長く続く。しかし革命が建築界に与えた影響は、あまりも大きかった。まず、イラン革命の目的のひとつが反西洋化であった。言うまでもないが、西洋の影響を大きく受けていたそれまでの建築も非難対象となり、「イランに相応しい建築のあり方」の模索が革命後の大きな建築界の課題となった。さらに、革命前に活躍していた主な建築家が国外に移住した。したがって、革命を機会にイランの現代建築の流れのなかで思想的、人材的、時間的な断絶が生じたといえよう。このように、戦中は建築活動が非常に少ないが、革命的思想に基づく建築のあり方として、形態がペルシア・イスラーム建築と呼ばれるイスファハンなどの伝統建築の再現が望まれた。私はこの動向を便宜上「形態的原理主義」と呼ぶことにする。この様式では建築の形態を古代建築から引用しているが、施工方法や材料は近現代的なものを使用する。

様式の多様化
革命が提示した「イランまたはイスラームに相応しい建築のあり方」という課題は、戦終から20年経つ今日までも、建築界の中心的な議論のひとつである。なぜならば、革命的思想から生まれた伝統的建築の「形態的原理主義」は、感情的な観点から生まれた手法だったので、時代のニーズに応える建築の創造につながらなかった。その結果、戦争終結後は、建築様式の多様化に至った。それは、在イラン社会が抱えている状況をそのまま表わしているという見方もできる。「形態的原理主義」は、現在でも政治的な力を持っている。さらに、「批判的地域主義」的な考え方で「イランやイスラームに相応しい建築のあり方」を模索する建築家もいる。これらの動きを建築界の保守的な動きとして分類すれば、もう片方に、現代イラン社会に存在する西洋への憧れを建築で表現する様式も存在する。この20年間にイランで建てられている建築を見ると、そのなかでアール・デコを思わせる建築に出会える一方、特に住宅建築のファサードに関しては古典主義表現が人気であり、さらにデコンストラクションも建築家のあいだで異様なほどの人気ぶりであることがわかる。これだけの多様性をもつ現在のイラン建築界でありながら、残念なことに1960年代や70年代のような建築に新たな言語を与える作品が少ないのは気がかりであり、現在の建築が抱える問題であろう。

21[左]──批判主義建築の事例:ファルハド・アフマデイ《デズフル市の文化会館》
22[中]──モダニズム建築の事例:モハマドレザ・ガーネ《イスファハン市図書館》Isfahan, Iran, 2001.
23[右]──モダニズム建築の事例:セイードハディ・ミルミラン《弁護士会事務所》Tehran, Iran, 2001.
24, 25[左・中]──アール・デコ建築の事例
26[右]──デコンストラクション建築の事例
特記以外はすべて筆者撮影

[ますみ めいさむ/建築デザイン]
1977年生まれ。東北大学大学院博士課程後期在籍。


200804


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