ピーター・クック講演会レヴュー──破壊しに、と彼は言い、お好きにどうぞ、とあなたは答えた(ほとんど無意識のうちに)/Sheltered by Mechanical Apathy

松原慈

2008年が終わろうという気配。12月の最初の週。
晴天。まだ秋の始まりのような、少し場違いな暖かさと日差し。
イギリスの冬は、冷たく湿って雲が多い。日本の冬の、突き抜けた青さとは別の種類の冬。
ピーター・クックはソウルから東京へ入る。今度の旅は、夫人ヤエールと。
前回日本を訪れたのは2004年のこと。同じように冬。水戸芸術館のアーキグラム回顧展のために。
今回の訪日の理由は、NEW TRENDS of ARCHITECTURE in EUROPE and ASIA-PACIFIC 2008-2010のヨーロッパサイドコミッショナーを務めるため。伊東豊雄がアジア・パシフィックのコミッショナーを務めた。関連して、前後に工学院大学とくまもとアートポリスにてレクチャー。東京と熊本を合わせて一週間を日本で過ごす。

登場/Ad Hoc Action
待ち合わせ、恵比寿ウェスティンホテルに現われたピーターの、シルクハットと真っ黒いコートに、日本の緑色のキャブは車高が低すぎるようだ。そして、ピーターはキャブを降りるたび、自動扉を手で丁寧に閉める。
ピーターの18歳の息子は音楽をやっている。東京のどこかで、日本の実験音楽を見つけて持ち帰りたいと言った。「一緒にレコードハンティングをしよう、特別なものでないとだめなんだ、素敵なだけでは、足りない」。ピーターが言う"Elegance is not enough."というフレーズは、別に建築に限って言うわけではない。

レコードハンティングを終えた、その日の東京での講演は、工学院大学のホールにて。収容人数は270。満席なので観客の一部は立ち見だ。間際に到着した私も、舞台端窓枠に腰掛け、始まりまで観客を観察する。自然と、イギリスで学んだ学校、バートレットのレクチャーを思い出す。幾度となく、数えることすら不可能な回数で、ピーターが、エスタブリッシュした建築家から若い建築家までを毎週のように呼び続けた、あのレクチャーのこと。学生はその前をある数年間、通り過ぎて行く。一番前の席で、軽い頬杖で、一番熱心に耳を傾けるピーターの後ろ姿。ロン・アラッドのコンピュータのデスクトップと喋り方。シンガーのようなザハ・ハディドの金髪と白い毛皮のコート。マッシミリアーノ・フクサスの完璧なスライド。各国の若い建築家たちが堂々と見せる、まだ建っていないユニークなプロジェクト。毎週毎週続くそれ。歩いて10分のAAスクールに、トーヨー・イトーがレクチャーに来れば、ピーターはそちらでも同様に席に着く。ピーターという人は、何時間でも話ができるし、何時間でも人の話を聴く。観察する、それはとても熱心に。コメントする、ときに精神分析家のそれのように。

講演の始まりから終わり──冒険/Friendly Alien
講演の始まり、静けさはすぐに消える。
コンペ勝利のヘッドラインニュースから。ピーターは、2004年から、30歳ほど若いパートナー、ガヴィン・ロボサムらとCRAB studioというオフィスを築いている。オフィスはイーストロンドンの始まり、クラークンウェル(Clerkenwell)の「変わった形が気に入ったから」決めたステュディオ。彼らはこの講演の5日前、オーストリア・Vienna University of Economics and Business Administrationコンペティションに勝利した[図1]。このコンペで、CRAB STUDIOは法科の建物を、ほかにザハ・ハディド、阿部仁史ら計5組の建築家が、キャンパス内各施設を担当することが決まった(http://www.wu-wien.ac.at/start/en/pressrelease.pdf)。また、2007年にはイタリア・ヴェルバニアでのシアター設計コンペに勝っている。

会場風景
1──Vienna University of Economics and Business Administrationコンペティション案
©CRAB studio

続いて、ピーターにとって、実質的に最初の実作にあたるのは、2003年に竣工したオーストリア・グラーツのクンストハウス(芸術センター)[図2]。フレンドリー・エイリアン。グラーツの街には、完全なかたちで旧市街地が残る(1999年ユネスコ世界文化遺産に登録)。2003年欧州文化首都に指定され、街には屋外現代美術彫刻が散在しているため、不可思議なオブジェやイベントが、クンストハウスの出現を歓迎した。たとえば、中央、シュロスベルクの丘に立つ時計塔の背後には、まったく同じ大きさで真っ黒い時計塔の影が立つ[図3]

会場風景
2──《クンストハウス》
3──時計塔の影。Markus Wilfling, Shadow Clock Tower

フレンドリー・エイリアンに関連させて、昔の、アーキグラムのプロジェクトが、いくつか紹介される。リファレンスとしてのアーキグラム。「とにかく、チャレンジが好きだ。失敗したら、それはしまっておいて、別の方法を試せばいい。そういうほうがいい」。アーキグラムは未来史ではなく、未来を生きるのはピーターその人である。そして、最近のドローイング、ベジタブル・アーキテクチャー。合間に、二つのサングラスを重ねてかけた、若い日のポートレイト。なんのプロジェクトかはわからない。
講演の終焉、写真を探す、ピーターのデスクトップで延々と流れるiPhotoのサムネール。ふとスクロールが止まる。ストックホルムのホテル。ロイヤルシアター真裏、イングマール・ベルイマンの気に入りだった、緑のヴェルヴェットカーテンで仕切られただけの部屋が並ぶ、小さなホテルの写真。ふたたびスクロール。ピーターの日常生活のスクロール。聴衆に、断片を放り続ける。イメージと言葉。ゴシップ。笑い声。
最後のイメージ、『Drawing』と題された、ピーターの最新刊行物の紹介[図4]。レクチャーの終わり。

会場風景
4──Peter Cook, Drawing: The Motive Force of Architecture, John Wiley & Sons Inc, 2008.

知性とは保険のようなもの。知性は、好奇心と経験によってのみつくられる。知的冒険が続く限り、知性が縮小することはない。冒険を中断するぐらいなら、知性の存在など忘れてしまったほうがましだ。いずれ、精神が年老い、冒険が続けられなくなったとき、バックポケットから出してきて、テーブルに並べて楽しめばよい。保険としての知性をもつとき、なにを怖がる必要があろうか。「トライしてみればよい」と、ピーターは言う。想像力がなくなることのほうを恐れるべきだ。
講演後、私の日本の友人は「記念に昔話を聴きにきたつもりが、驚いた」とコメントした。
昔話? そんなものが存在するだろうか。ピーターの人生は、続いているというのに、その変わらぬアティテュードで。

ピーター・クックという教育者──建築意識/Ambiguous Awareness
ピーターは、視力がよい。言い換えれば、視界を遮るものに敏感である。
ピーターは、退屈をしのごうというときの、時間の使い方を知っている。
退屈への嫌悪が育む、特別な視力が、教育の現場で、ピーターの影響を絶対のものにする。あなたがどんなバリアを張ろうが、ピーターは、あなたの、悪趣味、習癖、嗜好、執着、無頓着、自信、不安に、興味をもってしまう。教育の場でinterestingという言葉が使われる。ピーターに発見され、とんでもないところから、奇声を上げて、子どもが生まれる。
アーキグラム、ピーター・クック、教育、建築、意識、事故。思想が接触する。
ピーターは、動きの中に存在する。ピーターの話には、ピリオドがない。ピーターの思想に、明快な政治的宣言などない。判断などない。その動きは、イミグレーションで止められることなく、事故はあちこちで起こる。1974年にアーキグラムが終わったという懐古。同時代的安心。その後34年間、なにも終わらなかった。過去に起こった未来としてアーキグラムを語るのは、妊娠を否定するようなもの。膨張する下腹を前に、目を閉じても、出産は続く。
40年以上、教育者としてのピーターが与え続けた、解釈の永遠性と心理学の実験。思想が触れ合う、その刺激、視界が澄む、精神の快感。建築という「意識」の発見。

ピーターの教育者としてのキャリアは、1964年、27歳のときにArchitecture Associationで始まり。当時のピーターは、とあるコンペに勝ったばかりで、そのことを明記して、自分をクリティークとして招かなくてよいのかと、母校へ一通の手紙を書いた。招かれた。
その後これまで、70を超える数の世界の教育機関にクリティークとして招聘され、教育者としての顔が知られ、1990年にThe Bartlett School of Architecture(UCL)へ学科長として招かれる。2005年に退官するまで、公立としてファシリティとポテンシャルはあれど、一切影響力のなかった建築学校を、英国のトップ、世界でもっとも重要な9つの学校のひとつと呼ばれるまでへ牽引する。ピーターの存在によって、建築教育のなかに、意識が発見されたのだ。建築意識。
英国は、ピーターを表彰し、2007年、爵位を授ける。"There is no 'good' awareness or 'bad' awareness. Any awareness is good."といわんばかりの、あらゆる意識改革を文化に昇華させる、国の豊かさ。

ピリオドは、なし──かわりに動き/Absence in Motion
そして、いま、70歳を超えたピーター・クックは、少しずつ教育現場に距離を置きながら、今度は、次々と、自身の建物を実現させる。人生は、転回しながら続き、建築と建築意識はその付随物として交感する。時代を用意したのは、ほかでもない、本人以外の何者でもない。

ピーターが初めて出会った日本人は誰か。「おそらく、間違いなく、磯崎。1968年に、ミラノ・トリエンナーレで、同じホテルに泊まっていた、そして、ロサンゼルスで3カ月、毎週末一緒に過ごした、UCLAで教えていたんだ、ロン・ヘロンと磯崎と僕とで」。
ピーター・クックと磯崎新は、動きのなかで出会う。ぴったり40年前、その出会いが、日本への正式なアーキグラムの紹介に直結した。言語の壁を侮ることはできない。完璧な紹介は完璧に受け止められ、ピリオドが打たれた。ほかの国とて同じ。しかし、そのときも、その後の40年間も、ピーターは、動きのなかに存在してきた。シャッタースピードを超えて、存在し続ける、ピーターというインパクト。アーキグラムの「終焉」の知らせを知らぬ世代が、動きのなかで、事故に会う。

親愛なる、72歳のピーター・クック卿は、ロンドンの曇った冬空に、東京の晴天に、目を閉じることなく、踊るように、生き、建て、誰に止められることもなく、そ知らぬ顔で、あらゆる建築意識の産声に拍手する。拍手を聞いて、生まれる子どもの存在価値を、誰よりも、わきまえている。

[註]英文小見出しは言葉遊びであり、和文小見出しを英訳しているものではない。

[まつばら めぐみ・建築家]
1977年生まれ。2004年ロンドン大学バートレット建築学校MA修了。assistant共同主宰。
制作活動の幅は、インタラクティブ、音楽やグラフィックから、空間・建築、展覧会まで多岐にわたる。
http://www.withassistant.net


200812


このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る