美術館の現場から[2]
Dialogue:美術館建築研究[6]


 建畠晢
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 青木淳


●ホワイトキューブの捉え方
左:建畠晢氏、右:青木淳氏
左:建畠晢氏、右:青木淳氏
青木淳──青森県立美術館のことを話すと、どうしてもホワイトキューブとの関連について触れることになります。ですが、どうもこのホワイトキューブという言葉、人によってずいぶん違った意味で捉えられていることに最近気づきました。それで今日はまず、このホワイトキューブについて、お聞きできたらと思っています。
建畠さんは、「遅れてきたハコモノ」(『建築文化』1995年7月号)で、ルーブルの展示室に象徴される時代の展示室が第一世代、それからホワイトキューブを導入したMoMAなどの展示室が第二世代と、美術館の展示室の歴史を簡潔にまとめられています。そして、第二世代のホワイトキューブは、ニュートラルな性格の無機的な空間であり、それゆえ固有な環境あるいは場所に属していない、と指摘されています。たとえばMoMAの展示室は、MoMAでない美術館の展示室とも交換可能な空間であって、それら複数の美術館の展示室全体でひとつの空間を形成している、と。これはアメリカの、MoMAを代表とする方法による、世界的規模での美術空間の植民地支配ではないかとも、仄めかされていました。
一方ぼくは、ホワイトキューブには、ある意味では矛盾する2つの面があると考えています。そのひとつの面は、もちろん建畠さんが指摘されているように、ニュートラルな空間としてのホワイトキューブということですが、そこにニュートラルというのとは逆の、非常に個性の強い空間としてのホワイトキューブという、もうひとつの面があるのではないか、ということです。というのも、ホワイトキューブは基本的に、空間をサイズとプロポーションと光の状態だけに還元してしまった空間ですが、そうした抽象化の挙句、それはぼくたちの現実にはほかに見当たらない緊張感が充満した空間になっていると思われるからです。その証拠に、MoMAができたあと、多くの作家はホワイトキューブに魅力を感じるようになりました。人が魅力を感じるのは、そこになんらかの特殊な質を感得しているからで、もしそれが言葉の正確な意味で「無個性」であったのなら、人はそこに魅力も嫌悪も感じず、ただそこを通り過ぎるだけなのではないかと思われるからです。それを「無個性という個性」と言ってしまうのは言葉の綾であって、そうではなく本質的には、ホワイトキューブが求めること自体のなかに個性をもたらすなにか原因があるのではないか、と思われるのです。そしてこの原因は、ホワイトキューブが単に白いとか直方体の空間だとかいうことを超えて、もっと深いところにあるのではないか、と思われるのです。
断面図スケッチ
青森県立美術館、断面図スケッチ
提供=青木淳建築計画事務所
少し極端に聞こえるかもしれませんが、ホワイトキューブは、無根拠性とでもいうようなものに支えられているとぼくは考えています。つまりそこでは空間がなぜそうなっているのかを説明できないのです。ホワイトキューブは白く、長方形の空間で、光は隈なく全体に満ちています。そこでの操作はその空間のサイズとプロポーションに限定されています。これはホワイトキューブをホワイトキューブ足らしめている条件あるいはルールです。では、なぜこのルールなのでしょうか。それを説明することはできません。なぜならそれはホワイトキューブの物理的な定義そのものであって、それ以上でもそれ以下でもないからです。またそうした限定のなかでできた空間のサイズやプロポーションもまた、なぜそれが選ばれたかは説明できません。一般的に設計というものには、そこで行なわれることがまず決まっていて、その「行なわれること」が根拠となって、空間が決定されるということになっています。しかし、ホワイトキューブはそこで「行なわれること」にまでは遡ることができません。とは言え、その空間が無作為にあるいは恣意的につくられているというのでもない。ホワイトキューブは、明確にそれを生成する形式的ルールに遡ることができます。逆に言えば、ホワイトキューブは、ある形式的ルールから首尾一貫した道筋を辿って生成されています。しかし、その形式的ルール自体は無根拠なのです。もしホワイトキューブの空間の質を一言で言うとすれば、それは首尾一貫した徹底的な荒唐無稽さである、ということになるかもしれません。
ホワイトキューブがどうしてある特殊な空間の質を獲得できるのか、それはこうした事情によるのではないかという仮説を持って、ぼくは青森県立美術館を設計しました。この美術館では、地面がトレンチ状に縦横に掘削されたような地形が基本になっています。そしてその凸凹の地面に、上部面が平らで下部面が凸凹になった構築体をかぶせます。そうすると、上下の凸凹が噛み合って隙間の空間が生まれます。こうした形式的なルールによって、構築体のなかに想定されるホワイトキューブと噛み合った隙間の空間との2種類の空間が自動的に得られます。隙間の空間は、ホワイトキューブの空間がそうであるように、あるひとつの形式的ルールから首尾一貫した道筋を辿って生成されています。しかし、その形式的ルール自体は無根拠なのです。ホワイトキューブの空間がそうであるように、ヒューマンスケールからも切れています。まったくの荒唐無稽な空間です。これはホワイトキューブを遡ることで、それがホワイトキューブのもうひとつのオルタナティブになりえないか、という問題設定なのです。
建畠晢──ホワイトキューブ論として非常にユニークというか新しい視点を導入されていて、なるほどなと思いました。ホワイトキューブには二つの発想があって、ひとつはニュートラルな空間、もうひとつはそれ自体がひとつの表現である、ということですね。建築の視点からミニマルな造形を目指すことを考えると、建物の外部は別ですが、内部ではなかなか実現できないと思うのです。その点、ホワイトキューブというのは、まさしくそのまま建築の機能を形態と一体化させるといった意味では、確かに非常に強い表現であるという気がします。もうひとつのホワイトキューブの無根拠性とは、モダニズムの基本的なテーマだと思います。モダニズムとはすくなくとも最終的に無根拠性に行き当たってしまうと思っていて、たとえば機能主義とか機能といった概念には根拠があるではないかといわれそうですが、では機能とはなにかと考えると非常に不気味なものがあるんですね。100メートルを11秒で走るランナーのフォームより10秒で走るほうを美しいといいましょう、もっともよく機能するものをもっとも美しいとしましょうと決めたわけで、そこでなぜ美しいかどうかは問わない。それは非常に不気味なことになってきて、最小限の労力で最大限の殺戮効果をあげるようなマシンが美しいとかいうようなジェット戦闘機や武器の美しさを支えているのは、そういったモダニズムの根底にある無根拠性もしくはニヒリズムである。それはホワイトキューブの概念に典型的に表われていると思います。それをひとつの表現として、あるいは荒唐無稽さという視点からホワイトキューブについて展開されていて非常に刺激的なお話です。
青森の美術館は特定なサイトで、遺跡という非常に強い意味を持つサイトが近隣にあるので、ぼくはホワイトキューブの対極にあるような建築理念を持っているのかなと思っていたのですが、いまのような発想に立つとまさしくホワイトキューブと同根であるという、あるいは共有性を持った、ホワイトキューブのオルタナティヴであると言えて、なかなか鋭い意見ですね。ぼくは、ホワイトキューブはある種の究極であって、良い悪いは別として行き着くところへ行ってしまった姿だと思っていたので、オルタナティヴがないものがホワイトキューブだと捉えていました。しかしそれを逆手にとってオルタナティヴをつくり出す荒唐無稽な戦略とするのは建築家ならではの発想ですね。
青森県立美術館、模型写真(地下2階入口)
青森県立美術館、模型写真(地下2階入口)
提供=青森県立美術館
青木──たしかに正確には、ホワイトキューブにはオルタナティヴはありえないかもしれませんね。少なくとも、どこにでもつくれるという、グローバリズムに加担する性格を持つという意味でのホワイトキューブは、いまのホワイトキューブが究極だろうと思います。青森の設計が土の凸凹というところから出発できたのは、隣に三内丸山縄文遺跡があるからで、この存在がなければ土の凸凹という設計者の選択の恣意性はキャンセルされなかったはずです。青森県立美術館の土の展示室は、だから「ここにしかつくれないホワイトキューブ」です。もちろん「ここにしかつくれない」というのは、ホワイトキューブが本来はどこにでもつくれるということを含んでいたわけですから、すでに矛盾しています。でも、ホワイトキューブの、無根拠な形式ルールが生成する荒唐無稽さという空間の質ということに注目すれば、この1点を外しても仮説を検証する意味があると思えたのでした。
土の展示室というアイデアを持ったとき、これでいいと判断した理由には、それともうひとつ、まったく違う次元のことがありました。それは、90年代のはじめから、展覧会でアブジェクションの作品が目立ってきているわけですが、こうした「おぞましいもの」は、ホワイトキューブで見ると白々しいというか、どうも作品が空間にあっていないと感じるわけです。火を使うような呪術的なものまたは暴力的なもの、こういった作品をホワイトキューブで見ると、それがいかにおぞましく呪術的なものであったとしても、結局のところ美術あるいは美術館という制度に守られた、そのなかの出来事に過ぎないということも一緒に見えてしまう。ホワイトキューブは、絵画でいう額縁と同等のフレームとして、見る人の意識にすでにできあがってしまっているわけですね。美術館という制度自体がそもそもコンサバティブなものなのですから、それはそれでいいのかもしれませんけれど。


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