12月22日


神田須田町を歩いた。"神田"、この響きにはどこか伝統的で庶民的な香りが漂う。たとえば神田明神には江戸の刑事で有名な銭形平次や落語に登場するあの「八っつぁん」こと八五郎の石碑があるし(もちろん架空の人物だが)、神田の町には老舗といわれる蕎麦屋も幾つかある。神田上水として江戸期に日本で最初の本格的な都市水道が整備されたのも、神田地区であったことを思い出す。水道橋として「江戸名所図会」に描かれたほどだから、一種の都市的な先端技術の象徴だったのだろう。地下に埋めた木管を通 して水を供給するというシンプルな仕組みで、1898年に廃止されたが、まだその地には浄水場があり水の文化の名残を残す。庶民の暮らしとともに、そこから生まれる先駆性や伝統、伝説がある町なのだ。神田地下の須田町ストアも、そんなノスタルジックなセピア色の匂いが薄っすらと立ち込めている風景。かつてあったであろう活気。憧れの残り香。今やこの地下街も「過去形」の感は否めないが、当時は都市に住まう人々の特権性を象徴するような空間だったのではないか。江戸っ子が「上水の水で産湯をつかった」と啖呵をきったように、「会社に行く前に地下街で帽子を買った」などと言った人がいても不思議はない。そう思わせる地下街、神田須田町。「本当にあった地下街」。生きられた地下街。ここに並ぶ店舗の種類も面 白い。距離にしてわずか20mくらいだろうか、そこには帽子店、テーラー、靴屋、歯科診療所、理容室がコンパクトに収容されている。一通 り身なりを整えられるのだ。神田に住む人が利用するのか?いやこの街に住む人も少なからず存在するが、むしろここは通 勤先だろう。ということは極論すれば、パジャマのまま家を出て(恥ずかしいというような感覚的な部分は棚上げして)地下鉄に乗り、神田に着く。改札を出て、理容室でボサボサ頭を整えてもらい、スーツと帽子と靴を揃える。いざ地上に出たら、都会の紳士としてオフィス街を闊歩する。原理的にはそれが可能だ。右肩上がりの日本を支える会社員を支えた地下空間なのか。それは大袈裟としても、この須田町ストアを"都市のクローゼット"と捉えられなくもない。コンビニが登場したときは"都市の冷蔵庫"とまで形容されたというし、ファミレスやファーストフードはさしずめ"都市の食卓"か。そう 明治・大正期に銀座に生まれた数々のカフェは"都市のリビング"だった。こうして近代の都市生活では、本来各自の家の中で担われていた機能が、外部へ、つまり街へと溶け出していったのだ。都会の人間はその日常衣生活の時間の多くを、都市で消費するようになっていった。大都市の特徴だ。このように神田須田町ストアを通 して、神田という街の性格や近代都市のもつ日常的機能の変容にまで意識が及んだ。それはなにも今回に限ったことではない。私たちがフィールドワークを始めてからのこの10ヶ月、いつも地下空間を観察対象としながら、じつはそれ自体ではなく、その背後に宿る街の特質、現状、変遷に気付く羽目になってしまい、地下街の裏にある状況、あるいはその上(地上)で起きている問題が透けて見えていた。もちろん、地下空間に現代の都市の様子が端的に現れているのではないか、という問題意識からスタートしたわけだから、当初求めた方向へ私たちの思考は動いたのかもしれない。しかし、この10ヶ月で解答が出たわけでもなく、「真理」などに辿り着いたわけでも、決してない。なおいっそう問題が広がり、深まっただけだ。私たちの足元に埋まっていたパンドラの箱を開けてしまったと言ったら大袈裟だろうか。でも初心に戻れば確かに、欲しかったのか「答え」ではなく、「きっかけ」であり「アプローチ」だった。やっとスタート地点に、いや地下の入り口に立ったところのような気がする。どの地下街にも、来年も良い年が訪れますように・・・。(塩田)

 


1──飾り気のない看板


2──とりあえず設置したものがずっとそのままになっている、ような看板


3──目を凝らすと、定休日が日曜と祝日になっている :月曜日はやっているのか


4── 情報量の少なさが妙に心地よい

 




須田町の地下街についておもうことはまず、その小ささについてである。ただ単に面 積や規模が小さいというだけでなく、とても古いということもあってそこで使われているスケールは現在つくられる公共のスペース(もっといえば近くの八重洲地下街と比べてみればよいだろう)とは明らかに違う。「うわっ小さ!」というある種の驚きと、おもわず「つっこみ」を入れたくなるような、そんな小ささである。しかも特に僕が背が高いこともあってか、視線は上にいくことはなく、天井から容易に跳ね返され、細長い地下街の奥へと向けられる。そして、そのことがよりいっそうこの地下街を小さなものと僕らに感じさせてしまうのかもしれない。 また、地下街のお店に目を向けてみると、床屋、歯医者、帽子屋、靴屋があるが、そこでは靴を磨くおじさん、客と談笑する帽子屋のおばんさん、10分1000円という速さで次々とお客をさばていくおじさんなど、昔からここで働く人たちの顔がみえてくる。僕らは見落としていたのかもしれない。あるいは避けてきたのか?地下街で生活する人々を今まで追うことをほとんどしてこなかった。それは今までみてきた地下街がそのようなものを一切排除するようなつくられかたをしてきたのかもしれないし、そのときにつくられた時代などにも関係しているのかもしれない。少なくともここで僕が感じることは、お店(そこで働く人)と僕ら(お客さん)が一対一で対応しているような気がするということだ。各地下街では利用者数も違うのでどちらが良い、悪いというのは一概にはいえないが、これまでの地下街はあまりにも一対多という構図が強すぎて、その多の中に地下街の人も紛れてしまっていたのかもしれない。そして須田町という場所の質とでもいうものを成り立たせているものはこの一対一の構図であると僕は思えてならない。 僕はここが「ほんとうの地下街」であるとは断言できない。しかし地下街というものがそもそも地上の古くからある商店街のような、一対一を可能にするような場所を前提としてつくられていたなら、きっとここは、こここそが「ほんとうの地下街」なのかもしれない。(田中)