新橋

解ける地下街
瀬山真樹夫 SEYAMA Makio


 

 

新橋駅地下街について。そこは東京駅八重洲地下街ほど堂々としていないし、池袋西口・東口両地下街ほどまとまってもいない、また横浜ポルタ・ダイアモンド地下街ほど巨大ではない。かといって、しぶちかのように「忘れられている」感じもせず、ふつうに人に使われている地下街なのに、それ自体の印象が薄いのである[fig.1]。しかし、だからといってそこが重要な場所でないかといえば、そうではない。新橋の地下の歴史は古く、日本で最初の地下鉄が浅草−新橋の間に全線開通した1934(昭和9)年にさかのぼる。地下駐車場を経営母体とした新橋駅地下街「しんちか」自体は1966(昭和41)年の営業開始と時間差があるが、この地下街ができる以前から地下鉄銀座線と、JR(当時は国鉄)山手線の乗り継ぎ地点として地下道は重要な機能を担っていただろうし、また都営浅草線の乗り入れや、ゆりかもめの開通(JRでゆりかもめとの乗り継ぎがあるのはここだけ)などに伴い、それらの中継拠点としていまなお拡張され続けているのである。平面図[fig.2]を見るとそこが地下レベルにおいて営団銀座線と都営浅草線、そしてJR山手線に囲まれた三角州に立地していることがわかる。そこはインフラによって切り取られた残余でありながら、同時にどのインフラからも等距離にある場所なのだった。


fig.1——「しんちか」の風景


fig.2——新橋駅周辺地図。三角州に立地する地下街
出典=『東京地下鉄便利ガイド』(昭文社、2000)

それは、なんというか「接続詞」のような地下街かもしれない。それ自体は主語として機能しないが、それがないと文章として機能しない言葉。新橋駅地下街は「山手線」や「銀座線」といった要素を「接続」する。しかし、いったんそれだけを自立した要素として取り出してみると、茫漠としてつかみどころがない印象を受けるのである。そしてこの(接続詞的な)性格は、「ゆりかもめ」の乗り入れや、汐留が再開発されることで飛躍的に高まっていくと考えられないだろうか? というのも、そこがJRと地下鉄、ゆりかもめを繋げる拠点として機能し、利用する人が増えれば増えるほど、そこは単にそれらを繋げるだけの、いわば「通過点」としての役割が強調されることは想像に難くないから。


 

ここでわれわれはこれと似たような事態が、90年代のヨーロッパにおいて起こったことを思い出すことができる。それまでフランス片田舎の小さな都市であったリールは、イギリスと大陸を結ぶユーロトンネルの開通に伴い、TGVの通過地点となることで、ヨーロッパにおけるインフラの一大拠点へと性格を変えた。そこは、半径500km内外にロンドン、パリ、ブリュッセル、フランクフルト、チューリッヒといった都市を含み、なおかつそれぞれの場所へアクセスするためのインフラを備えた場所となることで、突如「1時間半の移動距離内に住む5000万人のヨーロッパ住民からなる仮想共同体の中心」 ★1となったのである。この地区はユーラリールと名付けられた事業主体によって90年代に超巨大規模で再開発が行なわれたが、この計画のマスタープランナーがご存じOMAであった。プロジェクトの詳細をここで述べることはしないが、要約するとこうだ。つまり、インフラの重要性を強調すること。何かを足すのではなく引くこと。鉄道、ハイウェイ、地下鉄、駐車場といったインフラについて、それらをまとめ上げる建物を設計するのではなく、それらが単に交差する場所をつくること。OMAによって「ピラネージ空間」と名付けれられたその場所[fig.3]は文字通りインフラが交差する場所であり、それらインフラを取り去ってしまえば後には何も残らない。そこは単にインフラ同士を繋ぐ場所なのであり、しかし、だからこそ重要なのである。OMAはそこが「通過点」であることを徹底的に強調したのだった(ちなみに、この都市開発の核となる施設として「コングレクスポ」と名付けられた巨大な国際展示会場がOMAによって設計されたが、そこもまたさまざまなイベントが行なわれては移ろっていく「通過点」なのだった)


fig.3——「ピラネージ空間」ドローイング
出典=「レム・コールハースのパブリックアーキテクチュア展」展覧会ガイド(TNプロープ1995)

この、ユーラリールと新橋駅地下街という二つの場所の類似に気がついたとき、思わず苦笑してしまった。なぜなら、一方は建築面積80万平方メートル(東京ドーム約17戸)に達しようかという超巨大都市開発事業であり、片や延べ面積12000平方メートル(東京ドームの4分の1)程度の小さな地下街なのである。計画から空間の規模にいたるまでのさまざまな要素を、どのような比べ方で見てもそれらのあいだに類似点を見出すことは難しく思われるし、事実、難しい。しかし、そこで起こっている出来事のあいだには紛れもなく類似性があるのである。それは、インフラが集まってくることによってできたものであり、またインフラを取り去ったら何もなくなってしまうような性質のものだ。そこは、お世辞にも建築計画学的によくできているとは言えない。なぜならその場所は、たとえ事前にさまざまなインフラをまとめあげる周到な計画をもってそのプロジェクトを完成させたとしても、その直後にはその計画とはまったく無関係な新しいインフラが介入してくる可能性を不可避的に含意せざるをえないような性格をもった場所であり、その意味でつねに「場当たり的」に拡張を行なわざるをえないような場所であるからである。予期せぬインフラの介入で計画はつねに破綻してしまうだろう。
しかし、だからこそそこは複数のインフラが結びつく地点として決定的に重要な場所なのだ。われわれは、「それ自体の印象が薄い」風景の背後に、そこが新たなインフラの介入によって相対化されてしまう可能性を見て取っていたのである。つまりこのように考えてみたらどうか? 「しんちか」がJRや地下鉄やゆりかもめを結んでいるのではなく、JRや地下鉄やゆりかもめがそこで出会うことが、「しんちか」を見えるようにしているのだと。次々と接続されるインフラによって元の地下街が拡張、転移してゆき、ついにはインフラの編み目の中に溶解してしまう様は(典型的であるがゆえに)多くの示唆に富んでいる。そう、このような事態はリールや新橋に限らず、全世界のいたるところで繰り返し起こっているのだった。

 

そしてこれは、われわれがそもそも地下街をテーマとしたフィールドワークを行なおうとしたときに漠然と考えていたイメージに近い。不断に拡張、転移してゆく対象を記述すること。そこから新たな参照項を探し出し、ツールとして組み立て直すこと。引き続きフィールドワークを続けよう。

 

■註

★1——『OMA/レム・コールハースのジェネリック・シティ』(TNプローブ、1995)
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