9月22日(土)

新宿のイメージ
今回のテーマが新宿地下街と決まり、新宿へのフィールドワークを行なっていたころニューヨークで、大規模なテロ事件があった。テレビや新聞などによればこれはアメリカ史上まれにみる惨事であるという。文化的背景は別にして、高密度(一方は島国であり、もう一方は河に挟まれている)に超高層ビルが林立しているという点を抽出してみれば、新宿とも類似点がみつけられるかもしれないと当初は僕は考えていた。

テレビで見る映像からの、とても現実ではありえないような光景を目の当たりにし、ふと、ある映画のことを思い出した。それは、こんな映画だった。アメリカの大統領がスキャンダルを起こす。支持率が低下し困った大統領は、実際には起こってもいない戦争をでっち上げ(つまり自作自演)、アメリカ全土にテレビで流す。つまり偽の情報を流し、支持率を再び取り戻そうと企てるというものである。
このような映画のような現実と、現実のような映画という認識の錯誤を引き起こす出来事は僕にあることを考えさせることとなった。といっても実際、ニューヨークには行ったこともないので、もともと、爆破された世界貿易ビルが建っていたということすら本当はわからないが、そのようなメディアの問題というのは建築においても重要な問題としてある。つまりア・プリオリに、ある流通するイメージに自分が支配されている可能性があるということである。
建築は建築雑誌によって、実物を見られない人たちにまで流通することができる。このときの雑誌の主な機能というものは建築を、写真あるいはテクストによって代理/表象するというものである。しかし、誰でも映画の原作を読んだときと、実際にその映画を見たときに、ある種の違和感、イメージの差異、齟齬というものを感じることがあると思うのだが、建築雑誌というメディアも同様な問題を抱えている。「問題」といったのは実際とは別のものとして伝えてしまうという意味であるが、別のものとして見せるということは、違った角度からとらえれば、創造力とも言えるし、高度な編集能力と言えるかもしれない。雑誌などのメディアによって流されるコピーであるところの建築が、オリジナルであるはずの実物の建築よりも「よく」見えてしまうというのは、雑誌というメディアにこのような操作が施された結果であると言えるだろう(蛇足であるが、上述の映画の話からすれば、この中で起こる「戦争」というものは一種のシミュラークルと言える。建築雑誌においてしばしば登場する未完成プロジェクトの模型などは、オリジナルを欠いた模像であり、ちょうどこの映画における「戦争」に相当し、建築雑誌というメディアはこの場合の映画に相当するのかもしれない) 。

地下を「経験」すること
注意しておきたいのは、ここでの目的は新宿地下街をメディア論的に展開していくことではない。あくまでも自らの「経験」に即して地下を記述していくことを目指している。ここで言う「経験」とは、理念や思考や記憶、イメージによってではなく、あくまでも感覚によって直接に付与されるもののことである。僕は東京に住んでいるので、これまでに新宿の地下街にはもちろん行ったことがある。しかしそれは「経験」したことにはならない。それは「ア・プリオリな認識」であって、「経験的認識」(カント)ではないからである。だからその意味においては僕らのうち誰もこの8月までは新宿地下街をいまだ「経験」したことはなかった。つまり、流通する新宿のイメージは持ち合わせていても、「経験」は持ち合わせていなかったのである。

「経験」される新宿地下
前回の横浜地下街のフィールドワークにおいて僕らはそれまでの平面的な思考から、立体的な思考へとシフトすることも可能であるということを明らかにした。そして今回のフィールドワークにおいても、地下から外に出ることなく、つまり一度も外に出ることなく、超高層ビルにあがるという奇妙な現象を「経験」することとなった。ひとつながりの連続する内部として認識されるそれらの空間は、前回の横浜地下街があまりにも東西に長く、歩き通すのが困難なほどに、ダイナミックな起伏に富んでいる(山崎)のに対し、西口の都庁方面では垂直方向に直線的な形態をもっていることがわかる。 地下から一気に地上百何十メートルもの高さにヴォリュームが押し出されたような線的な形を持つものが何本も林立するという様態を想起すると、いかにこれまでの八重洲、池袋、横浜と異なるか容易に想像がつくだろう。しかし、ではなぜこのような奇妙な内部が連続する空間が生まれたのであろうか? それはエレベーターやエアコンというテクノロジーに因るところが大きいと考えられる。そして新宿の場合はニューヨークなど他の都市と比べ、「動く歩道」というエレベーターを転倒させたような機械によってこの空間がより強化されているようだ。
エレベーターに代表される20世紀のテクノロジーは時間の圧縮を進める装置として発明された。建物の各フロアで起こっている別々の出来事と、それがあるひとつの建物(しかもそれはオリジナルモデルをもたないコピーとしてのビル群だ)を形成しているという事実は、エレベーターによって垂直方向への欲望を喚起されることとなる。つまり、より多くの、ここで言う内部と認識しうる空間が増殖するということだ。オフィスとフィットネス・クラブがあるビルのその上のフロアに学校があったとしても何も問題はない。ただ密度を増すだけである。そして新宿という都市においては、それが地下からすでに始まっていると言える。
先ほどこれは超高層ビルをメディア論的に論じるものではないといったが、同時に超高層ビルと地下街というビルディング・タイプに関する単なるフォーマリズム論でもない。あえて言うならば、ただ自らの「経験」の痕跡をトレースし、記述したものとでも言うべきだろうか。各々の感覚という材料をつなぎあわせながら、それを対象の認識とする。「経験」というパラメータによって、地下空間に新たなパースペクティヴを与えることができるなら、僕らのフィールドワークはきっともっと多様化するであろう。 (田中)