地下・風景をめぐるノート(1)|野村俊一

地下風景は退屈か?

 
3年ぶり大雪に降りこめられた東京。その翌日、私は地下道を歩くことになった。今までに何度も地下を往来したことはある。しかし意識的にその場を経験してやろうとして歩いたのは、初めてのことである。その経験について、どのようにレポートしようか。「天気に左右されない、人工の極み」と書き出してはみたものの、今のところそれ以上形容しようのない、そこは構想の困難な場所であることに気付く。

皇居外苑 皇居外苑 筆者撮影
今までの経験を極力想起するかぎり、正直なところ、私にとって地下は退屈な場所である。しかしこれでは話が終わってしまう。ならば私なりに、なぜ地下が退屈なのかを考えてみることにしよう。それはおそらく、「退屈だ」と判断することで覆い隠されてしまう、地下における断片的な知覚像や通 行人が織り成す動態的な環境の状況について、さらには退屈であるにもかかわらずなぜそれでも地下へ潜ってしまうのかという問いについて思考できるきっかけとなるだろう。  
そもそも、なぜ私にとって地下は退屈なのか。林道郎は地下について、無機質かつ機能性・抽象性を持ち合わせた場所であると言い、そこが「いまや例外的なシナリオ不在の空間となりつつある」と説明する★1。そして「空間を体験する人間の視点から見れば、地下には、その空間特有の行動/演技のドラマトゥルギーが欠落しているということになるだろうか。(…中略…)シナリオがないということは、何より、風景そしてスペクタクルがないということである」★2。なるほど地下は、人工物による断片的な像を与えるかもしれないが、それらを包括するシナリオやイメージを拒む環境であるといったところだろうか。さらに地下とは地上における無機質かつ機能性・抽象性の側面 が突出した場であると言えるのかもしれない。仮にこれに従うなら、東京の地下は地上の特殊なタイプとして捉えられるだろう。つまり、機能性と抽象性が突出した地上の環境から内面 的なスペクタクルを抜き取られた、「外部化した内部」としての地下。もしくは、地上の空隙としての地下。そのような環境下において観察者は「『わたし』という物語の一時的な喪失者として存在している」★3ことになり、経験を蓄えることが困難であることに気付くだろう。振り返って考えると、「私」による「退屈だ」という判断は、上記のような「喪失」感から何時しか逃れようとする意志のもと生じたのかもしれない。  ★1——林道郎「Tokyo Image: 1990s」(『10+1』No.19、特集=都市/建築クロニクル1990-2000、INAX出版、2000、151頁)。
★2——林、前掲論文(同書、152頁)。
★3——林、前掲論文(同書、152頁)。
繰り返すと、何はともあれ、地下は風景やスペクタクルを構想することが困難な環境であり、またそのような事実が、私を退屈にさせた。翻って考えるなら、風景の構想がたやすい環境は「退屈ではない」のだろうか。風景の構想はいかに可能か。
ここで風景の意味について簡単に瞥見してみるなら、西欧において風景は観察者の問題、とりわけ遠近法と密接にかかわる鍵語として誕生した。つまりこの語は、いかに世界や環境を把持するかという問いに関わる。一方日本ではこの風景について、特に近代以降盛んに議論された。例えば志賀重昂による風景それ自体へのナルシシズムと政治的ナショナリズムとの癒着に関する議論、そのほか柄谷行人に従うなら、明治近代文学における言文一致という制度による「風景の発見」といった議論が挙げられようか★4。これらの議論から読み取れることのひとつは、志賀重昂の場合における風景のナルシシズムは「風景の身体性という現象の中で起こる主観的な(故郷に対する)評価」★5により起こる行為であるということ、一方明治近代文学に発見された風景は世界像の認識を変容させる象徴形式としての機構であったということであり、ともあれ繰り返すなら、西欧の場合も日本の場合も、風景の問題には世界や環境をいかに捉えるかという問いが少なからず含まれているといえるだろう。 ★4——柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫、1988)。
★5——千田稔「『風景』のナショナリズム──志賀重昂と正岡子規」(『奈良女子大学地理学研究報告Ⅲ』奈良女子大学文学部地理学教室、1988)、135頁。
皇居外苑付近の地下通路 皇居外苑付近の地下通 路 筆者撮影
地下が退屈ではないために、さらには別 の把持の可能性を開示させるためにも、あえて地下の側から風景を考えてみることにしよう。そのさい私は人工的なものに対する反動として素朴に風景を対置させるつもりではなく、さらに風景それ自体の美的な質へ観念的に傾倒するつもりでもない。さまざまなねじれが折り畳まれているであろう地下という空隙のただ中で、風景という言葉を通 じて地下の世界や環境を捉える作法について志向するだろう。そのためにこの場を借りて、私はさまざまな他者が今までに論じてきた、風景の機構について、そのつど局所的な視野のもとめぐってみたいと思う。と同時に、具体的な地下へ潜伏し、観察をしなければならないだろう。風景を捉える機構と経験的な観察との往還。以降この稿はその結果 としての、断片的なノートとして進行する。次回はまず、東京の地下鉄・地下街がもっとも交差する大手町へ、レンズを片手に潜入する。
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